設立十年を経て
「私たちは、日本人のクラシックに冷たすぎはしなかったか」という鮮烈なメッセージの一端を引き継ごうと始めた活動が、お陰様で10年を超えた。芥川也寸志は生前、オーケストラの活動を社会運動と位置付けていた。
そのことを意識の片隅に置きながら、実際の活動で、自分たちの満足だけでな く、たとえわずかでも社会に繋がろうとしてきた。設立以来、沢山のご縁とご理解そして力添えに恵まれ、このオーケストラが継続して来られたことに心から感謝し、今後も人と作品との出会いに心ときめかせつつ精進を重ね、音楽の力を信じて進んでゆきたい。 【沿革】
日本を代表する作曲家であり、かつその域にとどまらず多様な音楽的、社会的活動を実践して現代の日本音楽界に多大な功績を遺した故・芥川也寸志氏の志を継ぐべく2002年に活動の開始を宣言。以来、10年を超える活動を通して、初演以来埋もれていた日本人作品の蘇演は約90数曲、演奏用楽譜を作成した作品は20曲、委嘱作品は7曲、制作・発売されたCDは10点、海外で音楽祭を3回(中国、ベトナム、フィリピン)開催するなどの活動を重ねてきた。(2014年現在) 実際の蘇演に当って失われている総譜やオーケストラ演奏用譜を整備することは、作品の普及につながる作業にもなっている。この作業の蓄積は、2014年より東京音楽大学付属図書館でニッポニカ・アーカイヴとして順次公開されている。取り組んだ作品の中には、既にプロフェッショナル、アマチュアを問わず他のオーケストラで再演されたり、ナクソスをはじめとする主要レーベルのCDに収録された作品も少なくない。 海外での公演に際しては、現地と日本のそれぞれの作曲家に作品を委嘱。それらを含むオーケストラ演奏会と、室内楽演奏会には現地の奏者も招聘し、作曲家や演奏家との交流も含めた音楽祭を企画運営している。日本人の交響作品を積極的に演奏すること、内外の埋もれた作品に光を当てて紹介することといった活動のみにとどまらず、さまざまな国(特にアジア)や分野(作曲委嘱など)において幅広く交流していくことには、今後も積極的に取り組んでいく。
【芥川也寸志】
1925年、芥川龍之介の三男として生まれる。東京音楽学校時代、作曲家・伊福部昭、早坂文雄らに影響を受ける。1953年團伊玖磨、黛敏郎らと「三人の会」を結成、戦後派の第一線に立って管弦楽曲など発表。一方、放送、バレエ、映画音楽、童謡まで手がけ、幅広く活動。主な作品に「交響管絃楽のための音楽」(NHK放送25周年記念懸賞特賞)、「弦楽のための三楽章"トリプティーク"」「エローラ交響曲」、オペラ「暗い鏡(ヒロシマのオルフェ)」、映画音楽では「煙突の見える場所」(毎日映画コンクール音楽賞)、「八甲田山」「八つ墓村」(共に日本アカデミー賞)、童謡「ぶらんこ」「小鳥のうた」、著書に「音楽の基礎」「音楽を愛する人に―私の名曲案内」などがある。 NHKの音楽番組「音楽の広場」「N響アワー」の司会、ラジオではTBSラジオ「百万人の音楽 のパーソナリティとして音楽の魅力を伝えると共に、アマチュアの新交響楽団を1956年に創設、音楽監督を務めた。また1981年には日本音楽著作権協会理事長に就任。著作権思想の普及だけでなく、音楽ホールの建設や保存に関する提言や運動など「音楽の力」を信じた八面六臂の活躍のさ中に倒れ、その死は畏友の黛敏郎をして「壮烈な文化への戦死」と言わしめた。没後、音楽界への貢献を記念し、1990年芥川作曲賞が創設された。1989年没。 芥川也寸志メモリアル オーケストラ・ニッポニカ |