作曲家
橋本國彦はしもと くにひこ (1904-1949)
橋本國彦は1904(明治37)年東京に生れて、1949(昭和24)年鎌倉に歿した。父の転勤により大阪へ移住。14歳の時にヴァイオリンを辻吉之助に師事する。大阪府立北野中学校(現・北野高等学校)に学んだが、橋本の同期に吉原製油の社長で画家としても著名な吉原治良がいる。3期上には梶井基次郎がいて、6期上には画家・佐伯祐三がいた。大先輩には「椰子の実」の作曲家・大中寅二、ずっと後輩には俳優・森繁久弥、作家・野間宏、数学者・森毅、漫画家・手塚治虫などがいる。なお、今日のコンサートマスター高木和弘も(橋本の)北野高等学校の同窓後輩にあたる。
さて、1923年(大正12年)東京音楽学校(現・東京芸術大学)入学した橋本は、器楽科でヴァイオリンを安藤幸に師事した。作曲はほとんど独学であったが、同校研究科に進んでバレエ音楽などを作曲して上演された。その後、歌曲の分野で名声を獲得した。また一方でCM曲や歌謡曲にも手を染めた。1933年(昭和8年)母校の教授に就任。 1934(昭和9)年から1937(昭和12)年の間、ウィーンに留学して、エゴン・ヴェレスに師事した。ヨーロッパで見聞を広めた後に、帰国途中に寄ったロサンゼルスではアルノルト・シェーンベルクに会っている。常に第一線の作曲家として活躍する一方、教師としても優れた業績をあげて、門下に矢代秋雄、芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎らがいる。 戦後は戦時下の作曲活動の責任を取らされて母校を去って後、「朝はどこから」などの歌謡曲、戦火に倒れた人々を追悼するために「三つの和讃」、交響曲第2番などを発表した。45歳の死は、あまりにも早かった。 |
取り上げた作曲家
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