馬思聡
作曲家
馬思聡まー すつぉん (1912-1987)
「第3回演奏会プログラム解説より転載」
劉 薇(りゅう うぇい・ヴァイオリニスト)
馬思聡はフランコ・ベルギー派のヴァイオリン奏法を最初に中国に導き入れた、本格的なヴァイオリニスト・作曲家である。1923年から31年にかけて、二度渡欧し、パリ音楽院でイザイの高弟ブシュリについてヴァイオリンを学ぶかたわら、作曲家ビナンボームに作曲法の指導を受けた。1929年17歳の時一時帰国、中国人ヴァイオリニストとして上海でデビューした。当時上海租界で活躍する西欧人だけで組織された「上海工部局楽隊」と共演したモーツァルトのヴァイオリン協奏曲は空前の大成功を収めた。”中国人に西洋音楽は無縁”といった偏見が持たれた時代に、馬思聡が公衆の前で、しかも西洋のヴァイオリン曲を弾きこなしたことは、特別な意味を持っている。
作曲家としては、西洋近代の和声と中国の民族的抒情を卓越した感性で融合させた作品、ヴァイオリン協奏曲(1943)をはじめ、組曲や小品などがあるが、そのほかにも弦楽四重奏曲(1931)、ピアノ三重奏曲(1933)、木管五重奏曲(1956)、チェロ協奏曲(1960)と作品総数は100曲に及ぶ。これらは中国における西洋音楽の受容にとどまらず、西洋音楽の中国的変容・内面化の過程を反映した、極めて芸術性の高いものである。
彼の作風は、同時代あるいは少し遅れて生まれた作曲家たち〜洗星海、賀緑汀、江文也、譚小麟、丁善徳らにとって、優れた手本になった。彼が目指したこの道が、中国の音楽文化をさらに発展させたことは、歴史的にも証明されたのである。
馬思聡は創作初期には「有産階級の音楽家」とされ、聶耳、洗星海のような革命音楽家と対立面に置かれた。創作中期は「資産階級学院派」の代表的人物として度々攻撃を受けた末に、文革期においては「資産階級反動学術権威者」と見なされ迫害を受けた。この糾弾は、彼の芸術生命を奪い、最終的に彼を祖国と切り離すという悲劇を生んだ。この悲劇は馬思聡個人だけではなく、中国音楽界の悲劇でもあったのである。
中国の音楽近代化は、どのように西洋文化、西欧文明を摂取するかという問題であった。中国民族固有の民謡に基づき、それを西洋の作曲技法と融合させた作品は、馬思聡の近代的自我意識の発露にほかならない。彼は、中国音楽の進むべき道は「新河流」である、と言っている。すなわち、西洋音楽文化を拒否する方向ではなく、中国の伝統音楽に西洋音楽を受け入れる事で新たなものに生まれ変わらせ、世界音楽の潮流に参入できる独自の音楽を開拓していくことが、馬思聡にとって近代化の道なのであった。
文化大革命後、中国は近代化路線を急速に進める中で、79年の瞿小松のヴァイオリン曲《谷》を初め、張河《草海音詩》、夏良《幻想曲》によって国内におけるヴァイオリン音楽は新しい局面を迎えた。85年、馬思聡が名誉回復されたことによって、彼のヴァイオリン音楽は演奏家によってかならずレパートリーにとりあげられるようになった。またアメリカ在住の20年間に作曲したヴァイオリン協奏曲5曲、《二つのヴァイオリンのためのソナタ》1曲、《二つのヴァイオリンのための協奏曲》1曲、50に及ぶヴァイオリン二重奏曲など多くの作品が、国内で知られるようになった。これらの作品は今日、中国ヴァイオリン音楽の重要な一部分を形成している。
馬思聡をはじめとする中国のヴァイオリン音楽の探求が始まって以来今日まで、約70年がたった。その間にヴァイオリンという楽器は、中国において他の西洋楽器にもまして浸透し、馬思聡が実現した、作曲における西洋技法と中国的感性との融合や、ヴァイオリン演奏に民族楽器の様々な演奏手法をとりいれる試みの全ては、ヴァイオリンの「中国土着化」という現象を生んだといえる。
馬思聡の独自の手法については、素材を中国民謡にとっていることが、曲を中国的表現にする第一の要因であることは確かであるが、特に和声手法に、馬思聡の独自性があった。彼の作品の多くは、古くから中国に存在する旋法、いわゆる「中国旋法」に基づいて作曲されている。この中国旋法の音の選び方に、馬思聡独自の深い洞察と極めて独特なセンスがあった為に、和声の彩りが非常に豊富なものとなっているのである。馬思聡が作曲に用いた民族的要素は、単純に民族的モチーフを曲の内部で用いるというレベルにとごまらず、形式構成、装飾法までを含む旋律の形態、和声法まで及び、作曲法のあらゆる面において中国的表現を追及したのである。
馬思聡は中国的な感性の表現を生涯通じて真摯に追及したが「中国的であること」をほかのすべてのことに優先させて考えることはせず、あくまでも音楽の多様性と内容の豊かさを第一に追求したので、彼の用いた「中国旋法和声」も、決して定形化、固定化したものとはなておらず、極めてバラエティーに富んだ斬新なものとなっている。中国旋法は馬思聡によって体系化されたも同然であるが、彼自身はこの規律に盲従する道を決して選ばず、あくまでも作品の美的効果を追求することを第一としている。また彼は好んで複合和声を用いるが、それは複合和声を多用することで、旋法の彩りを一層豊かにするという独自の手法なのである。
さらに終止法の点において、彼は西洋の伝統的な様式を模倣するのではなく、中国的スタイルに合う様々な解決と終止を試みている。中国の美を意識した「形式構想」、彼が生み出した「複雑な和音」、「旋律を発展させる手法」「旋法和声」といったすべての点において彼独自の語法が確立されたのである。
中国旋法の色調に合わせた響きと色合いを幅広くデザインした彼は、音楽における色彩の異才であり、その作品の本質は、中国的情緒の描写と民衆の心の表出、投影であると言える。
取り上げた作曲家