演奏会プログラムに書かなかった余談

 芥川先生が病床について亡くなる前に、ブラームスの交響曲第一番を聴きたいと言った。近くにいたものが直ぐにCDを買いに走って、求めてきたのがカラヤン指揮のベルリン・フィルの演奏。一度聴くなりこれは駄目だ、と言われて夫人はカセットに他の演奏をダビングして聴かせたそうだ。この話はとても有名な話だけれども、先生はなぜブラームスを聴きたかったのだろう。
 
 1989年1月の最後の日に芥川也寸志が亡くなった。芥川は偉大な生涯を生きたと思う。
 管弦楽、協奏曲、オペラ、歌曲、ピアノ曲などの分野にきちんと作品を書いて残した。また、現在にまでつながっている多くの社会的業績は日本国内だけではなく、中国やロシアにまで広がりを持つ。有名な指揮者ワレリー・ゲルギエフは、自分と日本を結びつけたのは芥川であり、来日するたびにそのことを思い出すとインタビューの中で語っている。
 出柩の日はことのほか寒い日であった。出柩の時だけ小雪が舞って、寒くて綺麗で悲しかった。私はガレージの隅で燃えるストーブの脇に作曲家の小倉朗と共に立っていた。「これで、俺のことをわかってくれるやつがまたひとりいなくなっちまった。」と小倉がつぶやいたが、あまりのしょげかたに言葉を返せなかった。芥川は1978年4月に2回にわたる「小倉朗交響作品展」の企画をたてて、新交響楽団を指揮したのだった。私はオーケストラ側の「小倉係」であった。(小倉が亡くなった後、私は小倉の絵画と室内楽と歌曲の演奏会を二晩開催した。)

 「調性は音楽のあるところ必ず光と影のようにつきまとっているものだ。」「ドミナントとはすなわち音楽家の心である」と書き残した小倉は、1949年33歳の年に交響曲へ長調を作曲する。当時ドイツの古典音楽に傾倒していた小倉のこの作品は「オグラームス」作曲と呼ばれた。ブラームスの影響を受けたと言われる日本の作曲家を寡聞にして知らない。「もし古典の美しさをいうなら、個性が様式をつき破って、独創という形で噴出する壮観にあるといえる。」という小倉の言葉はブラームスにこそふさわしい。
 芥川の青春時代の作品に「交響三章」というのがある。終楽章の弾けるようなカッコイイ始まりの部分は、むかし芥川の指揮する映像とともにテレビのコマーシャルにも使われた。この始まり方は、小倉朗の「交響組曲イ短調」の第一楽章の始まり部分の影響があるのではないかと、ひそかに考えている。和音が二回、ベートーヴェンのエロイカのように鳴って、アレグロの主題が出てくる。
 1975年のことであったと思う。芥川と彼が生涯をかけて育てた新交響楽団は、設立20周年を記念して二晩にわたる「日本の交響作品展」(1976年)を開催したが、この企画を立てる過程で芥川から「ブラームス」チクルスという提案があったことをはっきりと記憶している。この案をオーケストラ側が断ったところ芥川から改めて提案してきたのが、古い日本の管弦楽作品の連続演奏会であった。芥川はこの企画の中で、東京音楽学校に上がる前に日比谷公会堂で聴いて感激した小倉の「交響組曲イ短調」を演奏したいと小倉に申し出たが「はずかしい」と断られた。それならば、小倉の初期から最新までの管弦楽作品を並べた演奏会を開けば小倉も断れまいと、1978年の大胆な企画をたてた。芥川はこの作品をよほど気に入っていたのか、あるいは作曲家を志していた当時の大切な思い出であったのか、1983年に「青春の作曲家たち」と名付けた演奏会でふたたび取り上げた。
 小倉は芥川より9歳年上だが、NHKの仕事は最初芥川が紹介してくれたのだ、と言っていた。貧乏していたがこれで喰えた、と。NHKの人気連続ドラマ「事件記者」は主題音楽も人気であったが、これは小倉の作品である。
 小倉はべらんめえ言葉の飾りのない人物で、日本酒が似合っていて時々蕎麦屋でご馳走になった。家でも夫人の料理を肴に徳利を傾けていた。芥川はそのころグッチの靴とベルト、時計で、これが実に良く似合っていた。1977年の夏のことである。私はふたりのお伴をして昔のTBS会館地下の「シド」に入った。芥川はヴィシソワーズを頼んだ。手をつける前に芥川は小倉に言った。「これ食べる?」「いらねぇ」と小倉が答えた。その様子を見ていて、ふたりは気が合っているのだと思った。前衛に与しない小倉の作曲姿勢は、芥川の師であった伊福部昭の作曲姿勢とともに、70〜80年代の芥川に勇気を与えていたのだと思う。
 ふたりはブラームスについて語り合うことがあったのだろうか? (奥平 一)