最初に、"行動する作曲家"石井眞木(1936〜2003)への理解を深めるために、彼の父である舞踊家・石井漠(1886〜1962)について述べなければならない。
【日本近代舞踊の先駆者・石井漠】
1925年(大正14)のことである。文豪・谷崎潤一郎(1886〜1965)は石井漠の舞踊について次のように書いた。「これに反して公會堂における石井漠兄妹の舞踊は、實に寂しいものであった。第一見物が非常に少ない。踊り手は漠君と、小浪孃と、十一二歳の少女だけである。そして彼等は、たゞピアノだけの音樂を用ひ、簡素な衣裳で、幕を垂れた背景の前で踊るのである。しかし私は見てゐるうちに、その深みのある象徴的な表現に全く引き入れられてしまつた。いふまでもなく漠君の舞踊は日本固有の舞踊とは違ふ。その技巧は西洋から取つたものであり、伴奏の曲目も西洋のものではあるけれども、中に盛られた感情は純粋に東洋的である。私はこれこそ日本人の獨創になる眞に新しい舞踊だと思つた。殊に『マスク』『奇妙』などいふ作品が表はすユーモアの感じは、全然今までのどこの舞踊にもなかつたものだ。小浪孃の『惱ましき影』や『夢みる』の持つ暗示的な優婉さ、『音樂なき舞踊』と題する二つの習作の瞑想的な力強さ、〜中略〜それらは一として東洋人の惱みを語り、われわれの心に惻々として訴ふるところの何物かを藏せぬはない。思ふに石井君は藝術家として、今や油の乗り出した得意の境地にあるのであらう。私は近年、これほどの驚異と感激をもつて觀たものはなかつた。石井君があらゆる貧苦艱難と闘かひ、これだけ自己の藝術に向かって努力精進しつゝある間に、自分は何をしてゐたかと思ふと、顧みて忸怩たるものがあつた。」(谷崎潤一郎全集第23巻「西洋と日本の舞踊」中央公論社1983)谷崎は同じ年の生れの石井漠を絶賛している。
漠が創作舞踊家として初めて舞台に立ったのは1916年6月のことで、それは劇作家・小山内薫(1881〜1928)と、作曲家・山田耕筰(1886〜1965)によって設立された移動劇団「新劇場」の第一回公演であった。演劇以外の演目として、山田耕筰の作曲、振付による舞踊詩「日記の一頁」と、メンデルスゾーンの曲に山田が振付した「ものがたり」が上演された。帝国劇場で開催されたこの公演の入場者数は29人と伝えられていて、運営的には惨憺たるものであったが、その中に小山内の力を借りて雑誌第二次「新思潮」を創刊した谷崎潤一郎がいた。谷崎は漠の軌跡を見守っていたのである。
山田耕筰がベルリン国立高等音楽院(当時)‐ホッホシューレへ留学した1910年前後のドイツは、音楽や物語や衣装に従属されない身体性を取戻そうとする「ノイエタンツ」(新舞踊)が、アメリカからヨーロッパに渡ってきたイサドラ・ダンカン(1878〜1927)の影響の下に盛んになりつつあった。それは同時代の華やかなディアギレフのバレエ・リュスによる総合芸術の理念とは対極に位置するものであった。リズムを身体運動の基礎に取り入れたエクササイズを創りだしたスイスの作曲家・エミール・ジャック=ダルクローズ(1865〜1950)は、ドレスデンの郊外ヘレラウにダルクローズ舞踊学校を設立し、ノイエタンツに影響を与えた。ダルクローズ舞踊学校は大きな注目を集め、ディアギレフ、ニジンスキー、ラーバン、スタニスラフスキー、山田耕筰、秦豊吉、小宮豊隆等が訪れている。
山田耕筰はノイエタンツをベルリンから日本へ持帰り、舞踊劇や舞踊詩という分野を構えて作品を作曲し、ダルクローズのリトミックの教則本を基に、自ら試行錯誤して石井漠に振付を行ったのであった。ちなみに、絵画、建築、パフォーマンス、小説、演劇、童画などの各分野で驚異的な活動を行った天才マヴォイスト村山知義がドイツからノイエタンツを持ち帰り、漫画「のらくろ」の作者・高見澤路直(田河水泡)らと舞踊活動をしたのは1923年から24年にかけてのことである。山田と漠の活動の先駆性が理解できるであろう。時代は、自由でのびのびとした創作活動へ向けて沸騰していた。
1922年、漠は同い年の舞踊家・アレクサンドル・サカロフ(1886〜1963)の存在を知って"清新な力強い道が開けるのを感じ"(石井漠「私の顔」モダン日本社1940)、おのれの舞踊の実力を試すためにヨーロッパへ渡ることを決意する。同年11月に帝国劇場で開催された「石井漠渡欧記念舞踊公演」のために、山田は舞踊詩「野人創造」を作曲して振付けをした。二年間にわたってヨーロッパとアメリカを廻って成功を収めた漠は、帰国後三鷹の武蔵境を経て荏原郡衾(ふすま)、現在の自由が丘に「石井漠舞踊研究所」を構えて新たな舞踊運動を展開する(「自由が丘」という地名は漠の命名によっている)。精力的に日本全国を巡業して著名となり、戦後は石井眞木の作曲の師であった伊福部昭(1914〜2006)の舞踊曲『さまよえる群像』『人間釈迦』などで大衆的にも名声を博した。
【行動する作曲家・石井眞木】
石井眞木(以下、石井と表記する)は、漠の三男として生れた。長男の歓(1921〜2009)は作曲家であり、漠の実弟・五郎も山田耕筰や成田為三に師事した作曲家である。実は漠が故郷秋田から上京した動機も作曲家になることであった。石井が作曲を志したのは必然であったのかもしれない。1958年、彼は山田耕筰が学んだ学校、ベルリンのホッホシューレ(ベルリン国立音楽大学)に留学する。一旦帰国して後、1969年に西ベルリン市(当時)のベルリン芸術家プログラムの招聘により再びドイツに渡った石井は、かつて谷崎が述べた漠の創造の軌跡を追い掛けるかのように、ベルリンと東京に拠点を置き、東と西の音楽を対峙させ、あるいは融合させながら、時には雅楽や声明をも採り入れて、さらには東西の図式的な構図を乗り越えて、自己のアイデンティティを強烈に意識しつつ、創作における世界的な最前線に常に身を置きながら走り抜ける生涯を全うした。特に打楽器の用い方は巧みであり、20世紀の作曲家の中で最も優れた打楽器による多彩な表現を獲得した作曲家であると言っても過言ではない。
その創作活動範囲は作曲のみならず、現代音楽祭や音楽運動の企画・実施について恐れを知らぬ超人的な働きを成し遂げた。ベルリンでは「ベルリン芸術週間」の複数年にわたる日本特集に於ける企画やベルリン在住の各国の作曲家たちとの様々なプロジェクトを、北京では「日中友好合作現代音楽祭」を、また東京では「日独現代音楽祭」「パンムジーク・フェスティバル」「東京の夏」などの現代音楽祭の企画を行った。また、TOKK(東京音楽研究所)アンサンブルのプロデューサー・指揮者として、世界各国で日本文化を紹介した。例えば、1976年の9月から10月にかけての石井の海外での活動を追ってみよう。TOKKアンサンブルを率いてイラン、イギリス、ドイツ、ポーランド、スウェーデン、フランス、デンマーク、チェコを旅行し、10月3日ベルリン、23日ロンドンでは鬼太鼓座により石井の作品「モノクローム」が演奏され、9月29日ケルン、10月12日〜14日ベルリン・フィルハーモニーの定期演奏会で宮内庁楽部により「遭遇U」が演奏され、引続きパリ、ロンドン、ヴェニス公演を行っている。石井のコーディネート、プロデュースの力量に驚嘆せざるを得ない。このような力を発揮する資質はどこでどのように獲得したのであろうか。想像するに、彼が漠の"興行"としての舞踊公演活動を身近に見たこと、そしてある時には公演に同行した経験に、原点があるのではないだろうか。"現場"で多くのことを学んだに違いない。多数の人物が関係するプロダクションの仕込みと現場で起きる問題の解消プロセスや良好な人間関係を保つこと、お金の工面のこと、そして"興行"は、その"藝術性"の目標を高く掲げながらも、観衆を楽しませなければならないということ、などである。石井は作曲においても、人づきあいにおいても、常に人々を楽しませ、喜ばせる企みを忘れていなかったと思う。
【石井眞木を育てた環境、そして『交響譚詩』】
多方面に才能を発揮した音楽評論家・秋山邦晴(1929〜1996)のインタビューに答えて、石井にしてはめずらしく、自らが育った環境を語った記録がある。「夕食に、家族水入らずということは皆無。美術畑の人や、音楽家が一緒で、芸術論をナベ料理をつっつきながらやる。」「ピアノもグランドピアノを含めて五台あった。漠が大陸(中国東北地方及び朝鮮など)巡業の折々に集めた打楽器や各種のめずらしい打楽器がたくさんあり、近所の子供たちとグランドピアノの上で打楽器を叩いたり、そのまわりで踊ったり・・・」「ダルクローズのリトミックを日本に広めた小林宗作さんと漠が親友で、彼が教えていた国立音楽大学附属中学に勧められて入学した。(註:小林宗作(1893〜1963)リトミック研究家・幼児教育家で、『窓際のトットちゃん』で有名になったトモエ学園の創設者)」「この頃からいろいろな先生の個人レッスンについて音楽の勉強を始めた。作曲を池内友次郎、指揮を渡邉暁雄、ヴァイオリンを鰐淵賢舟に。」「国立音楽大学附属高校を卒業した後に、漠に連れられて伊福部昭のところへ通うようになった。エンピツの削り方、譜面の書き方、管弦楽法を二年間みっちり習った。(註:兄・歓は、眞木の将来について漠といつも語っていたと証言している。ふたりは眞木の留学先の事も相談をしていた)」「日本の伝統音楽は、親父につれられて宮内庁の雅楽を見に行ったり、民族舞踊の関係で、日本の太鼓の音をはじめとする民俗音楽は、ベートーヴェン、ショパンと同じくらいの量を聴いていた。」(雑誌「音楽芸術」1973 年5 月号 音楽之友社)
また、石井は伊福部昭古希記念・交響コンサート(1984)のプログラムに「釈迦の手のひら」と題して、十代後半の頃の自身について触れている。「十代後半、私が最も多く聴いた作曲家の一人は〈伊福部昭〉である。親父の仕事の関係もあった。親父のために書かれた舞踊曲「さまよえる群像」は何度も公演でピアノ伴奏を弾いたし、管弦楽のための長大な舞踊曲「人間釈迦」は、まさしく"耳にたこができる"程聴いた。しかし"SP"(註:レコード)がすり切れるほど聴いたのは『交響譚詩』で、私のベルリン留学以前の習作には、これらの大きな影響がある。先生の門をくぐったのもこの頃で、お忙しい先生が何度も夜を徹して、私のつたない習作を見て下さった。この感激はいまだに忘れられない。〜後略」
石井眞木は、上記インタビューと文章の中で、生涯の活動の原点と要を語っている。多様な打楽器あそび、ダルクローズのリトミック、雅楽、日本の太鼓、近代創作舞踊(バレエ)、伊福部昭である。
石井眞木 「交響的協奏曲」 オーケストラのための(1958)
この作品は、1958年5月に完成された。二カ月後の7月、石井はベルリンに渡りベルリン国立音楽大学に入学することになる。この頃の石井の状況について秋山邦晴は著作の中でこのように述べている。「そのころ(註:国立音楽大学附属高校卒業後)大学へ進学もせずに、オーケストラ曲を二、三曲すでに作曲していたらしい。それらはストラヴィンスキー、ハチャトゥーリアン、プロコーフィエフ、それに師伊福部昭の影響とが雑然とまじっているような作品だったという。こんなことをしていても駄目だと考えたとき、かれは父に留学の希望を話す。」(秋山邦晴「日本の音楽家たち」音楽之友社1978) 石井は1956年に三管編成による「オーケストラのための 交響的"動"」という作品を作曲していて、上記の"二、三曲"は、この二つの作品のことであると推測する。
「交響的協奏曲」はおそらく、ベルリン国立音楽大学の試験に向けた提示作品として作曲されたのではないだろうか。秋山の著述にもかかわらず、この作品はバルトークの「オーケストラのための協奏曲」に、題名及び曲想について直接的な影響を受けている。すなわち、オーケストラの各楽器に応分の活躍をさせること、序奏が低音部に乗った木管とトランペットのソロにより静かに徐々に展開されることや、コーダが十六分音符の弦楽器に始まる走句がじわじわとクライマックスを築くあたりである。中間部のフルートやチェロに、一瞬「オーケストラのための協奏曲」のフレーズが現れるのは、作曲家を志す真っすぐな22歳の若者の作品らしく微笑ましくもある。勿論、中にストラヴィンスキーの「春の祭典」や伊福部の手法も聴き取ることができる。
しかしそこには、はやくも強固な石井の個性が表現されている。非常に単純で機械的とも言える動機の積み重ねによって、" 音響" を構築する技法、序奏部に出現する4/4拍子に6/8拍子や6/4拍子を組合わせるポリリズム、一定の固定リズムを徐々に細分化するリズム変奏などは、巧みさに差はあるものの、アフロ・コンチェルトにも出現する。ティンパニの他に6人の奏者を擁して、全編に渡って活躍する打楽器の使用などは、師伊福部の最初の管弦楽作品「日本狂詩曲」が必要とする打楽器奏者9人には及ばないが大胆だ。
曲は、序奏とコーダを両端に据えた、三部形式で構成されている。
初演:2013年7月14日 オーケストラ・ニッポニカ 指揮:野平一郎 紀尾井ホール
編成:pic,2fl,2ob,cor-I,2cl,b-cl,2fg,c-fg,4hr,3tp,3tb,tu,tim,6perc(bd,cym,sd,tri,tamb,t-t,wood-block,chinese-woodblock,claves,bongo,tamburo,tamburo-rullante,sleigh-bell),hp,弦楽5部
使用楽譜:スコア 明治学院大学図書館附属日本近代音楽館提供
パート譜面 オーケストラ・ニッポニカ作成
陳 明志 《御風飛舞》 In the memory of Ishii Maki(2013)
この演奏会のために、オーケストラ・ニッポニカが委嘱をした作品である。作曲者が作品の解説を寄稿して下さった。
20世紀90年代日本に留学していた時に、幸運にも石井眞木先生の創意と躍動感に溢れ、エネルギッシュな作品を聞くチャンスに恵まれた。その後石井先生にいろいろと教わり、先生が精力的に推し進める中日現代音楽祭などのイベントの企画準備を手伝う運びとなった。日本、中国、東南アジアの音楽と西洋音楽を融合させ、音楽の深遠なる境地を作り出そうとする先生の創作理念と実践精神は私にとって一生の財産となっている。先生が亡くなられて10周年の折、《御風飛舞》を作り、先生に捧げたい。
「風」は異なる地域の風土や音楽流派も意味する。《御風飛舞》は石井先生の音楽創作が異なる国の間にある音楽の境界線を越え、生命力に溢れ、自由に舞い上がることを意味する。曲は「序破急舞」の四つの部分に分かれ、日本の雲音階(ママ、註:陰音階か?)を基調とし、東南アジア音楽の色合いも取り入れている。曲の後半は石井先生の《漂う島》の四音音階及び90年代によく使われた固定音型の手法を借用し、民族情緒が漂う雰囲気の中で、尊敬なる(ママ)石井真木先生を偲ぶ。(作曲者解説、以上)
陳明志は、それまで後進の指導にあたることを避けてきた石井が、長期的なヴィジョンのもとで「将来重要な役割を担うであろう人材を、自身の関わる音楽製作の現場に置き、多くを吸収させよう」という意図を持って交流した中国の作曲家である。秦文?という作曲家も同様の交流を得た。陳は香港出身で、91年から日本で現代音楽を学んでいた。石井は1995 年に東京で陳と出会い、翌年4 月、石井が実行委員長となって開催した「日中友好合作日本現代管弦楽作品音楽会" 東京の響きin 北京"」の際に陳を同行し訪中。陳の紹介によって、中央音楽学院作曲系の教授陣と交流の機会を持ち、そこに秦文?も同席していた。ここでの出会いがきっかけとなり、石井と中国の作曲家の間で急速に親近感と信頼関係が芽生えた。(出典:司東玲美「アジアに新たな芸術音楽の世界を築く:石井眞木の抱くヴィジョン」『音楽芸術』1997年12月号 音楽之友社)
初演:2013年7月14日 オーケストラ・ニッポニカ 指揮:野平一郎 紀尾井ホール
編成:pic(持替),2fl,2ob,2cl,2fg,4hr,2tp,3tb,tu,4perc(tim,bd,s-cym,sd,tri,tamb,t-t,vib,xyl,5tom,5wood-block,maracas,bongo,2conga,sleigh-bell,日本太鼓),hp,弦楽5部
使用楽譜:スコア及びパート譜面 作曲者
石井眞木 ブラック・インテンションT 1人のリコーダー奏者のための(1976)
タイトルの「Black Intention」は特殊な音楽的意図を作品に織り込むという意である。「ブラック・インテンション」はその後シリーズとしてW番まで作曲された。石井は、「『ブラック・インテンション』と『失われた響き』の二つのシリーズの作品群は、たぶん、西に振れたものの代表であろう。」と言っている。TからWまで、いずれも演奏家の超絶技巧に触発されて作曲されたものである。この作品は、いまやオーケストラ古典音楽の指揮の巨匠となった、リコーダーの名手フランス・ブリュッヘンのために書かれ、また捧げられている。
一人のリコーダー奏者が、2種のソプラノリコーダーを同時に演奏したり、テノールリコーダーの特殊奏法(尺八奏法のイミテーション)に、 声、銅鑼(Tam-Tam)が対位的に演奏され、重層的な音響を形成するなどの、 特殊な音楽的意図「Black Intention」が織り込まれている。
作品に小節線は存在しない。冒頭で11個の動機が示される。その後動機は、乱数的に演奏され続けるが、2種のソプラノリコーダーが2度音程で同じ音形を吹き始める部分では冒頭の11個の動機が再現される。シャウトと銅鑼が鳴った後、「ブラック・インテンション」の真骨頂となる、声を出しながらリコーダーを吹き、同時に銅鑼を叩く部分が続く。このあたりでは、四分音を織り込みながら、冒頭第一番目と第二番目の動機、及び11 個の動機の中から、八分音符二つで2度する跳躍する動機、及び同じく9度で跳躍する動機を使って展開する。やがて曲想は点描風に推移し、十二音技法を極めた石井らしく音列を逆行形、移高などの技法を駆使しながら、合間には第一と第二の動機が挿入される。最後は、2度と9度及び第一と第二の動機のみが繰返し奏されて最弱音で終息する。
初演:1977年3月12日 フランス・ブリュッヘン ニューヨーク・メトロポリタン美術館
編成:soprano-rec,baroque-soprano-rec,tenor-rec,tam-tam
使用楽譜:全音楽譜出版社
伊福部昭 交響譚詩(1943)
1958年に出版された最初のスコアに、伊福部はこのように書いている。「第二次大戦中、蛍光質の研究に斃れた兄のために起稿し、1943年春に脱稿(札幌)したものです。戦争が次第に烈しくなり、大きな編成を採ることが困難な時代だったので、2管持ち替えの小さなものとしました。その年の9月、ヴィクター管弦楽コンテスト(Victor Orchestral-contest)に入選、東京交響楽団、山田和男指揮によって録音されました(Victor,s.p. 文部大臣賞 1953年再発行)。公開初演は同年11月20日、日比谷公会堂において同じく東京交響楽団、山田和男指揮により行われました。」
第一楽章は拡大されたソナタ形式である。音楽は躍動感に満ちていて、大地を踏みしめるようなリズムと骨太な旋律、時折見せる抒情は北の大地に生きとし生けるものと自然への思いにあふれている。第二楽章は序奏と終結部を持つ三部形式で作曲されている。博覧強記の音楽評論家・片山杜秀が度々語っているように、この楽章は元来「日本狂詩曲」(1935)の第一楽章として作曲された「じょんがら舞曲」である。兄・勲はギターを良くし、弟・昭の為に「じょんがら舞曲」の浄書を手伝ったそうである。伊福部が「じょんがら舞曲」を「交響譚詩」の第二楽章として据えたことについては、非常な覚悟と綿密な設計があったはずである。単なる代替の楽章として用いるのではなく、「兄にために起稿」し「交響譚詩」と名付ける挽歌として既成の「じょんがら舞曲」を用いる必然性を追い求め、またその意義を込めた交響作品にしようとしたはずである。
事実、このような視点から第一楽章の構造を追ってみると、この楽章の中に「じょんがら舞曲」(第二楽章)の主要な動機や構成要素が用いられており、そのことで、第一楽章の躍動感あふれる音楽の中に、鮮烈な抒情を添える形で昇華された音楽が響いていることに驚く。そのような視点から、第一楽章の要の部分に絞って解説をしてみたい。
@ 第一楽章の第一主題は、「じょんがら舞曲」の第二主題と同じ構成要素で出来ている事。
第一楽章は、アウフタクトの強烈なテュッティ(全員での意)一発から開始され、いきなり第一主題(六小節)が提示される。木管楽器による推進力と躍動感にあふれた主題の冒頭二小節間の音階と、次の小節に聴こえる印象的なH音を合せると【D−E−G−A−H】の音階となる。この時弦楽器群は【A−E−A(oct.)−E】の分散和音を八分音符で刻む。一方、「じょんがら舞曲」の第二主題(練習番号59番からのフルートによる主題)は、最初の二小節間の音階は【D−E−G−A−B】であり、伴奏の弦楽器群は5度低くヴァイオリンが【A−D−D−A】、ヴィオラとチェロが【D−A−D(oct.)−A】の分散和音を十六分音符で刻む。しかし、表現されている音楽は静と動、正反対の性格を持っている。第一楽章の冒頭から「じょんがら舞曲」を第二楽章とする意志が漲っている。
A 第一楽章の第一主題に、「じょんがら舞曲」のコーダの動機がはめ込まれている事。
第一楽章の第一主題(六小節)は提示部と再現部の冒頭で、それぞれ三回連続して繰り返される。しかし、二回目と三回目に現れる第一主題には、「じょんがら舞曲」の終盤のコーダに現れる動機が引用され見事にはめ込まれている。仕組みとしては、曲が躍動感にあふれて始まったばかりなのに、もうそこには悲しさを歌う「じょんがら舞曲」の最後が垣間見えているということである。こんなに悲しいことはない。その部分は、第一主題が始まった" 六小節" が奏された後、練習番号2番の三小節目からテュッティ で、3/4、2/4、3/4という変拍子のフレーズが加わる。【D−E−C−D−(E),D−E−C−D,E−D−H / E−D−H】という動きである。使われた「じょんがら舞 曲」の動機は【D−C−A,D−C−A、D−Es−C−D】で、練習番号73 番以降に現れる激しいテュッティである。第一主題の【E−D−H】を、一音ずつ下げるとコーダの【D−C−A】と同じ動きとぴったり重なる。且つ、第一主題の【D−E−C−D】は、コーダの【D−Es−C−D】に同じである。すなわち、引用元の「じょんがら舞曲」の後半4拍の動機を第一主題変拍子部分の前半に使用し、「じょんがら舞曲」の前半3拍二回の動機を第一主題変拍子部分の後半に使用しているのである。
B 第一楽章の展開部で、「じょんがら舞曲」の一場面が展開される事。
第一楽章はソナタ形式である。古典音楽におけるソナタ形式の展開部は本来、楽章内の主題や動機が使用されて様々な表現の展開を見せる作曲家の腕の見せ所である。ところが伊福部は展開部に「じょんがら舞曲」の重要な和音及び音楽の一部分を印象的に展開させている。この音楽にある古典的形式よりも大切なものが、表現を形式からはみ出させたのである。 練習番号18番から展開部に入るが、練習番号21番に進むと突然にテュッティで五度の和音が、寺院の鐘のように三回鳴らされる。【G&D】音のベル・トーン(鐘の音)である。このベル・トーンは、「じょんがら舞曲」のヴィオラとクラリネットによる哀切な第一主題が歌い始められる時に、チェロとコントラバスによって鳴らされ、第一楽章を想い起こさせるはずである。(更に「じょんがら舞曲」の楽章が進むとこのベル・トーンにはB音が加わって【G&B&D】、つまりG-Mollの悲しみの鐘の音が響く。)次にコーラングレが【A−G−A−B】を繰り返すオスティナートに乗って、第一ヴァイオリンがsulGで楽章内の推移主題【F−Es−D−Es−D−C】を弾く。低弦は【D&G】音を静かに弾き、ティンパニーは【G−D−D−D】とリズムを刻む。荒涼たる大地の景色を想わせるこの部分は、「じょんがら舞曲」の第一主題の後に、第一ヴァイオリンが合いの手を入れる時の各楽器及び動機の組合せと、全く重なり合う(ティンパニーがハープに置き換わる)。
C 第一楽章の再現部で、「じょんがら舞曲」の動機が展開される事。
第一楽章の再現部に入り、第一主題が三回繰返された後、一拍分突然の全休止となる。直後、チェロ、ヴィオラ、ソロ・ヴァイオリンが【A−H−C−H】と一音単位にカノンのように奏する。これも形を変えたベル・トーンであり、この部分の清冽で祈るような抒情性は曲中でもことに印象深い。この音の動きは、「じょんがら舞曲」の第一主題の音形【G−A−B−A】から取られている。この引用が、「じょんがら舞曲」の第一主題が哀歌であることを確実にしている。この時に低弦のバスとチェロが半拍ずれて開始するベル・トーンを弾いているのは勿論である。
D 第一楽章と「じょんがら舞曲」のコーダの動機が同じである事。
第一楽章のコーダ練習番号54 番及び55 番の部分【F−F−E−F】と、「じょんがら舞曲」のコーダ練習番号74の一小節前【Es−Es−D−Es】は,同じ音形の動機を用いている。第一楽章の最初と最後に「じょんがら舞曲」の動機を引用していることこそ、最初に述べた伊福部の覚悟を表している。
伊福部はこのようにも語っている。「作品を書くときに頭から考えていってはいけないということです。音楽に限らず時間芸術というものはすべてそうで、文学でも、例えばシェイクスピアの「ハムレット」では、最後にクライマックスがある。作家はそこが頭に浮かんだのであって、作家はそれを効果づけるために前の方に考えていく。もちろん書くときには、はじめから書き始めますが、時間的構築というものはそういう風にするということです。」
「交響譚詩」のクライマックスは第二楽章にある。
初演:(舞台初演)1943年11月20日 東京交響楽団 指揮:山田和男 日比谷公会堂
編成:pic(持替),2fl,2ob,cor-I(持替),2cl,b-cl(持替),2fg,4hr,2tp,3tb,tu,
tim,hp,弦楽5部
使用楽譜:スコア及びパート譜面 音楽之友社レンタル楽譜
石井眞木 打楽器とオーケストラのための アフロ・コンチェルト ヴァージョンB(1982)
この作品の作曲及び初演の経緯について、初演時のプロクラムに作曲者が執筆した解説があるので、これを掲載したい。
「アフロ・コンチェルト」は、元来、吉原すみれのために書かれた作品である。作曲されたのは1982年の夏だから、すでに2年半の歳月が流れたことになるが、今回が、吉原すみれによる初演になる。実は、これには少々わけがあって、1982年の吉原すみれとNHK交響楽団による放送初演録音が、吉原すみれが病に倒れたため出演不可能となり、急遽他の2人の打楽器奏者とオーケストラのためのヴァージョン(A)で放送が行われたのである。〜中略〜 この協奏曲は、題名にもあるように、アフリカの土俗音楽の響きの魅力、執拗な反復がまきおこす呪術的な音世界に魅せられ、そこから大きな触発をうけて作曲されたものだ。実際に、この作品にはマリムバのルーツともいわれるアフリカの単純な音階をもつ民族楽器〈バラフォン〉も登場し、マリムバともども重要なソロ楽器として活躍するが、さまざまな皮質の〈アフリカン ドラム〉が現代的な打楽器と複合して独特な音響世界を現出する。因みに、これらのアフリカの打楽器は、全て吉原すみれが現地から持参したものだ。構造的にも、短いメロディー、リズムなどには、アフリカ、例えばピグミー族の音楽の他いくつかの断片が用いられており、それらが、現代的な手法と複合し〈執拗に反復〉される。このように、この協奏曲では〈アフリカ〉が曲の内容と密接なかかわりをもっているのである。曲は1度目はマリムバ+バラフォン、2度目は全独奏打楽器によって〈カデンツァ〉風に中断されるが、全体的には、pppからffffまでの息の長い、大きな〈クレッシェンド〉によって構成されている。(作曲者解説、以上)
この作品は、当初「ブラック・インテンションX」として発表された。基本的な拍子は、一小節が5/4+1/ 8拍子となっていて、最初から最後までこの拍子で貫く。八分音符換算で十一拍子。これは「ブラック・インテンションT」の基本動機数が11 であることと符合する。小節の 中の最後の1/8拍子が不思議な感覚を与える。恐らく、超絶技巧を必要とする打楽器ソロ部分とこの十一拍という拍子が、主たる" ブラック" な音楽的意図であろう。
また、石井が説明しているアフリカ的要素にもう一点、追加の指摘をしておきたい。開始まもなく、5/4拍子の前半三拍分について、オーケストラの打楽器群は四分音符単位リズムを三つ刻む。これに重ねて、弦楽器群は附点四分音符単位で二つ刻む。後半の二拍分は、八分音符の三連音符を二拍分刻むなかで、三拍子系と二拍子系のリズムが維持される。
このように、二種のリズムが同時に進行していく構造を「垂直的ヘミオラ」と言い、ひとつの旋律の中で三拍子系と二拍子系のリズムが交互に入れ替わる構造を「水平的ヘミオラ」と言う。この独特の緊張感を生む様式を、民族音楽学では、ローズ・ブランデルの「アフリカのヘミオラ様式」という概念として定着している。
この作品は、この概念を上手く取り込みつつ、「ブラック・インテンションT」に通ずる11拍を合せて作品の基礎構造としている。
生前の石井に作品について様々質問をした時に、度々返ってきた答えは「秘すれば花なり。なんちゃってね。」(世阿弥「風姿花伝」)であった。
初演:1985年1月25日 新日本フィルハーモニー 交響楽団 指揮:井上道義 打楽器:吉原すみれ 東京文化会館
編成:2fl,2ob,2cl,2fg,c-fg,4hr,2tp,3tb,tu,4perc(bd,sd,2tamb,a-cym,maracas,t-t,gong,5s-cym,bongo,2conga,vib,xyl,glo),hp,弦楽5部,独奏perc
使用楽譜:スコア及びパート譜面 リコルディ社(ミュンヘン)レンタル楽譜