野平一郎・フランス・歌〜荻野綾子の追憶に〜プログラムノート

オーケストラ・ニッポニカ 奥平 一

【荻野綾子、1929年のリサイタル】
 1929年(昭和4年)5月23日(木曜日)午後7時のことである。前々年の暮れに三年間のパリ留学を終えて帰国した歌手、荻野綾子(1898〜1944)のリサイタルが開かれた。荻野と同じ年齢で、31歳の近衛秀麿(1898〜1973)の指揮、新交響楽団(現・NHK交響楽団)の管弦楽伴奏であった。会場は、1927年2月に第一回目の定期演奏会を開催した新交響楽団が、定期演奏会の会場として使用していた神宮外苑の日本青年館である。
 リサイタルのプログラムは、近衛秀麿編曲「フランス17世紀歌謡集」、U.ショーソン「愛と海の詩」全曲(ブーショール・作詞)、V.グラズノフ「交響詩 ステンカ・ラージン」(管弦楽)、W.橋本國彦「笛吹き女」(深尾須磨子・作詩)、という演目であった。声楽作品はすべてが日本初演であり、「フランス17世紀歌謡集」と「笛吹き女」は、このリサイタルのためにそれぞれ編曲及び作曲された。(グラズノフの交響詩は、1927年10月に行われた近衛秀麿指揮、新交響楽団第14回定期演奏会で既に演奏をされている。)
 今日のオーケストラ・ニッポニカ第24回演奏会は、上記1929年の荻野綾子のリサイタルのプログラムの趣旨を汲んで再構成し、荻野の業績を改めて顕彰しようとする企画である。

【荻野綾子の略歴と業績】
 荻野は、1898年(明治31年)11月2日、福岡に生まれた。高等女学校時代に音楽に強く惹かれて、音楽家を目指すようになり、1915年(大正4年)に東京音楽学校(現・東京藝術大学)へ進学する。1919年東京音楽学校本科声楽部卒業、1921年研修科修了。1925年以降1938年までの間に、三度にわたり通算約5年間、パリへの留学を果たした。声楽をペツオルト、クロワザに、ハープをミシュリーヌ・カーンに、それぞれ師事する。ソプラノ歌手として、日本とフランスの近現代の歌曲をそれぞれ両国に紹介し、フランス歌曲の普及と日本歌曲の創作に貢献すると共に、優れた歌手を育成した。1944年(昭和19年)10月12日、グアム島の玉砕、沖縄への大空襲と戦局が切迫する中、千葉県布佐町(現・我孫子市布佐)で病没した。
 荻野の業績は、第一に日本歌曲の創作委嘱と初演及び演奏を行ったこと、また海外で歌ったこと、第二に多くのフランス歌曲を日本へ初めて紹介したこと、第三にフランス歌曲の魅了を伝えて優れた弟子を育成したこと、などである。
【日本歌曲への業績】
 荻野は東京音楽学校卒業後、数年を経ずして、長編物語歌曲「芥子粒夫人(ポストマニ)」(1924)、誰もが知る名作「からたちの花」(1925)を始めとする、山田耕筰(1886〜1965)の数多くの作品を歌っている。「からたちの花」は、荻野に捧げられている。当時、山田と並ぶ作曲家であった信時潔(1887〜1965)にも委嘱をしている。 1920年代後半からは、後に新興作曲家連盟(1930年創設)に所属することになる若い作曲家たちを中心に、数多くの委嘱を行った。すなわち、伊藤昇(1903〜1993)、清瀬保二(1900〜1981)、齋藤秀雄(1902〜1974)、菅原明朗(1897〜1988)、橋本國彦(1904〜1949)、早坂文雄(1914〜1955)、松平頼則(1907〜2001)、箕作秋吉(1895〜1971)、山田和男(1912〜1991)などである。委嘱にあたっては、若い作曲家たちを励まして経済的な援助をするために、質屋通いまでしたようである。(四家文子「歌ひとすじの半世紀 〜わたしの楽壇史・交友録」1978 現代芸術社刊)
 中でも橋本國彦は1928年に、荻野の委嘱によって「黴」「斑猫」「笛吹き女」を作曲する。この三作品は同一の作品番号(作品16-1,2,3)で括られている。続けて荻野は、名曲中の名曲「舞」(1929)を橋本に委嘱する。作詞はいずれも、詩人・深尾須磨子である。荻野の第一次留学帰国直後に開催された1929年4月の「荻野綾子日本歌曲の夕べ」、及び冒頭に述べた5月のリサイタルで初演されたこれらの作品群は、当時の歌曲の新しいスタイルを打ち出し、日本歌曲史上に於ける画期的な作品となった。
 荻野が日本の歌曲を作曲家に委嘱して歌うという活動を、如何に、継続的に、積極的に取組んだかという証は、東京藝術大学附属図書館の「荻野文庫」の存在にある。2007年に東京藝術大学附属図書館で「荻野文庫」が発見された。これは、荻野綾子の夫であり、戦前の一時期に東京音楽学校教授を務めた太田太郎(1900〜1945)の蔵書に含まれていた手稿譜である。内容は、少なくとも55人の日本の作曲家たちによる歌曲の手稿譜224点であった。現在では目録が整備、公開されていて、Web上での情報検索が可能になっている。
 ここには興味深い情報が存在している。例えば、伊福部昭「平安期の秋に寄する三つの詩 (小野小町, 曽根好忠, 和泉式部詩)」(1934?)は、従来の作品表では見たことのない作品名であり、目録上では「新発見?」と注釈がついている。もしも新発見であるのならば、来年の伊福部昭生誕100年にあたって、再演が期待される。
 また、オーケストラ・ニッポニカが2004年に演奏した管弦楽作品である、伊藤昇「黄昏の単調」(1927)の作品名が検索できる。ところが、内容は『管弦楽伴奏付き歌曲』となっているのである。この作品は、三木露風の詩によって触発され、当初ピアノ作品として作曲された。その後マンドリン・オーケストラのために、さらに管弦楽作品に編曲されて、ワルター・ヘルベルト指揮、新交響楽団によって演奏されている。声楽作品版が存在することは、伊藤昇についての主要文献である秋山邦晴著(編集・林淑姫)「昭和の作曲家たち」(2003 みすず書房)の中にも、あるいは数冊の管弦楽作品年表にも見出すことができない。
 「荻野文庫」が日本歌曲史上、また日本の作曲史に於いても、最重要の資料集であることは容易に想像が付く。
  
 しかし、荻野らの努力にもかかわらず、日本の演奏史において、一般的に日本歌曲を歌う活動への評価は、芳しいものではなかったことが窺える証言がある。新国立劇場初代芸術監督で日本芸術院会員、歌手、作曲家で稀代の音楽評論家でもあった畑中良輔(1922〜2012)は、日本歌曲を歌うことについて次のように語っている。「日本人の感性、思考力で、日本人の持つ独特の美意識でもってドイツ歌曲と対峙したときに初めて、日本人がドイツ歌曲を、またフランス歌曲を歌う理由が出てくるのであって、もちろん勉強するときには、より本物に近づくべく勉強しなきゃいけないけれども、究極は、日本人ということから我々は抜け出られない。ですから、日本人は日本の美意識でもってドイツ歌曲、イタリア歌曲を歌っていくほかはありません。〜中略〜ところが、日本歌曲の場合は、日本人が日本歌曲を歌うのは当然だと思うけれども、その当然さが当然さじゃなくなっている時代が長く続いて、独唱会を日本歌曲でやると一段低く見られた時代もあります。それは昔から現在なお尾を引いています。大正11年に発刊された北原白秋、山田耕筰主幹による『詩と音楽』という雑誌がありますが、この中で、外山国彦(1885-1960)さんが日本歌曲だけでリサイタルをやったら、批評家から「堕落だ」と書かれたと。音楽を勉強する人が日本の歌曲を歌うと堕落だとスタンプを押される。それは、昭和になっても同じ風潮だった。」(雑誌・音楽芸術第51巻第12号1993年 音楽之友社「対談 日本歌曲の歌唱にみる課題」24〜25頁)
 今日における荻野綾子の評価は、芳しいものではない。ドイツ歌曲を中心に、日本歌曲の歌唱にも生涯をかけて取組んだ柳兼子(1892〜1984)や、オペラやドイツ及びフランス歌曲の歌唱、そして日本の歌曲の創作など幅広い分野で活躍した四家文子(1906〜1981)の名は、標準音楽辞典(1966 音楽之友社)に掲載されているが、荻野綾子の名はなく、世の中の知名度が今ひとつ低いことは、全く不思議でならない。

 オーケストラ・ニッポニカはこれまでに、荻野が初演した管弦楽伴奏付きの歌曲を、折に触れて再演してきた。橋本國彦「笛吹き女」(1928)、伊藤昇「古きアイヌの歌の断片"シロカニペ ランラン ピシカン"(銀の滴降る降るまはりに)」(1930) 、諸井三郎(1903〜1977)ソプラノのための二つの歌曲「妹よ(中原中也詩)」「春と赤ン坊(中原中也詩)」 (1935)、早坂文雄「海の若者(佐藤春夫詩)」 (1939)である。
【フランス歌曲への業績】
 荻野は、1925年春から1927年暮れまで、及び1930年暮れから約一年半、パリへ留学して声楽、ハープを学び、幅広く様々な演奏会を聴き、フランスの音楽家との交流を図っている。第一次留学の帰国直後の1928年1月には、二日間に渡るフランス歌曲による帰国リサイタルを催している。また、10月17日には「ドビュッスイのまつり」と題して、没後十年を記念したドビュッシー(1862〜1918)の歌曲16作品による演奏会を開催している。荻野が華々しく楽壇に躍り出た1928年や1929年には、ラヴェル(1875〜1937)の連続演奏会が企画されたり、音楽雑誌にフランス音楽の特集が盛んに組まれたりしていた。ちなみに、当時「音楽新潮」という雑誌が発行されていて、1929年からこの雑誌に楽譜が付録につくようになる。この年の付録楽譜の作曲者は圧倒的にフランスの作曲家で占められている。順に、クープラン、ラモオ、ドビュッシー、ラヴェル、オネゲル、ミヨー、ポリニャック大公夫人、オーリック、デ・ファリャ、ホアキン・ニン、ジルマル・シクス、清瀬保二、松平頼則、と見事なラインナップである。ことに、フランス六人組、及びバレエ・リュスのプロデューサーであったディアギレフの庇護者で、米国の財閥シンガーミシン(懐かしいメーカー名)の令嬢であり、音楽に造詣が深かったポリニャック大公夫人の作品が複数回掲載されているのには、驚かされる。意外にも、海外の音楽情報はかなりな密度で日本にもたらされていたのである。
 1928年の荻野はオーケストラとも共演をしていて、11月11日の新交響楽団第38回定期演奏会では、ヨゼフ・ケーニッヒの指揮により、ラヴェル「シエラザード」(1904)から"アジア"と"魔法の笛"及びルーセル「四つの歌曲」(1903)を歌っている。パリ音楽院長であったアラン・ルヴィエは、著作の中で次のように述べている。『ショーソンの「愛と海の詩」は、管弦楽を伴う歌曲というこのきわめて難しいジャンルにおいて、ベルリオーズの「夏の夜」(1840/1856)とラヴェルの「シエラザード」を中継したと言える。』(「オーケストラ」1990 白水社文庫クセジュ) 荻野の「シエラザード」の歌唱が全曲でなかったとはいえ、翌1929年に「愛と海の詩」全曲を日本初演する荻野の活躍が、如何に一本筋の通ったもので、周到に準備されたものであったかは、想像に難くない。
 このようにフランスからの帰国後、僅か二年の間に縦横な演奏活動を行って、荻野は再びパリへ第二次留学をする。第二次留学後の1935年10月23日には、新交響楽団第159回演奏会において、荻野を贔屓にしていた山田耕筰の指揮により、フランス歌曲を歌った。モーツァルト交響曲第四十番、ドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」、ショーソン「リラの季節」、フォーレ「月の光」、ラヴェル「カディッシュ」、ドビュッシー「マンドリン」、ラハナー組曲第二番というプログラムである。プログラム構成として、フランス歌曲だけでなく、「牧神の午後への前奏曲」が入っているのは山田の荻野に対する心遣いであろう。なぜなら「牧神」は、新交響楽団がパリでハープを勉強した荻野の帰国を待って、荻野のハープ演奏により、第27回定期演奏会(1928年4月8日)において演奏された作品であるからだ。
 荻野は、三回にわたるフランス留学を経験しながら、数多くの独唱会を開催して、フランス歌曲を自らのものとした。そして精魂込めた身をもっての活動は、荻野の弟子によって引継がれていく。荻野の代表的な弟子に、古澤淑子(1926〜2001)がいる。古澤は、今日に続く「フランス歌曲研究会」を立ち上げたほか、ドビュッシーの歌劇「ペレアスとメリザンド」の日本初演に出演し、貢献している。時代の制約もあり、荻野がフランスの歌劇作品に出演することはなかった。

近衛秀麿編曲 フランス17世紀歌謡集(1929)
 この作品のスコアと演奏譜面は、「荻野文庫」の中から発見されたものである。
 「17世紀」と謳われているが、18世紀の作品を含むオムニバス組曲である。第三曲目のみ歌曲であり、ほかはオペラの中のアリアである。組合せの出典は不明であるが、おそらくは荻野がパリ留学で入手した譜面からの編曲であろう。この後、近衛はリュリ、ラモー、グレトリ等の管弦楽作品を新交響楽団の定期演奏会で指揮している。編曲者の近衛秀麿については、近衛の弟子でもあった藤田由之氏の文章を参照して頂きたい。ここでは、各曲の作曲家のプロフィールを簡潔に紹介する。
 ジャン=バティスト・リュリ(1632〜1687)は、イタリア・フィレンツェの出身。リュリによって初めて、フランス独特のオペラが創りあげられたと言われる。ルイ14世の寵愛を受けて、1673年から没するまで、ほとんど毎年オペラを作曲し、16曲を残した。リュリのオペラの大半は音楽悲劇であり、音楽よりは劇が優先されている。また、音楽はフランス語の抑揚によく合っていたため、フランス人に受入れられた。
 ジャン・フィリップ・ラモー(1683〜1764)は、ブルゴーニュ地方の中心地のディジョンに生まれた。前半生は、ノートル・ダーム大聖堂などのオルガニストを務めた。後にマリ・テレーズ・デゼイの庇護を受けて、オペラの世界に進出した。ラモーのオペラは、リュリ以来のフランスの伝統的な手法に立脚していると言われている。劇的な表現に富んでいて、特に合唱はバッハの受難曲やヘンデルのオラトリオにも比肩できる力がある。
 マラン・マレ(1656〜1728)は、パリに生まれヴィオラ・ダ・ガンバを学ぶと同時に、作曲をリュリに学んだ。ガンバの独奏者として活躍する一方、オペラ座の指揮者を務め、マレもまたルイ14世にかわいがられた。
 アンドレ・エルネスト・モデスト・グレトリ(1741〜1813)は、現在のベルギーのリエージュで生まれた。幼少時、生地でペルゴレージなどのオペラを見て、オペラの作曲を志す。ローマに学んだ後、1768年以降はパリでオペラ・コミックの流行作曲家となった。簡潔な構成と叙情的な旋律が大衆の人気を博した。
【初演】1929年5月23日 新交響楽団(現NHK交響楽団) 指揮:近衛秀麿 独唱:荻野綾子 日本青年館
【楽器編成】2fl,2ob,cor-i,2cl,2fg,2hrn,g,弦楽5部,独唱S
【使用楽譜】東京藝術大学附属図書館所蔵

ショーソン リラの季節〜「愛と海の詩」より(ブーショール・作詞)(1886)
 日本で初めてショーソンのオーケストラ作品が演奏されたのは、1929年の荻野のリサイタルであり、「愛と海の詩」であった。交響曲の初演は戦後で、有名なヴァイオリン独奏曲「詩曲」の初演は1935年のことである。リサイタルでは「笛吹き女」が最後に演奏されたが、荻野にとってこのリサイタルの要の作品は、「愛と海の詩」であったであろう。繊細な管弦楽伴奏を持つこの作品は、橋本國彦に、またリサイタルの新作の作詞をした深尾須磨子にも、大きな影響を与えたと推測する。「笛吹き女」の静寂な部分にはフランス音楽の香りがするし、「笛吹き女」の歌詞には「愛と海の詩」と共通したキー・ワードとして"月"や"リラ"という言葉が現れて、相互の連想を深めている。
 "リラの季節"は「愛と海の詩」の終曲の終わり部分であり、しばしばひとつの作品として歌われる。作曲者自身のピアノ伴奏版がある。
【初演(愛と海の詩)】1893年4月8日 国民音楽協会オーケストラ 指揮:ガブリエル・マリ 独唱:エレオノーレ・ブラン (パリ)
【日本初演(愛と海の詩)】1929年5月23日 新交響楽団 指揮:近衛秀麿 独唱:荻野綾子 日本青年館
【楽器編成】2fl,2ob,2cl,2fg,2hrn,2tp,3tb,tim,hp,弦楽5部,独唱
【使用楽譜】サラベール社

橋本國彦 笛吹き女(深尾須磨子・作詞)(1928)
 全12章からなる、橋本國彦の唯一の管弦楽伴奏付きの歌曲である。オーケストラ・ニッポニカがこの作品を演奏するのは三回目のことであるが、この作品の初演の状況については、不覚にも今回荻野綾子の軌跡を追ってみるまでわからないでいた。
 橋本は自らこの作品について、初演の演奏会のプログラムの中で、次のように解説している。『深尾須磨子氏の詩による「黴」並びに「斑猫」と姉妹曲にして、共に日本としては新らしき試みなる朗読調式の作曲法による。フリュートは屡々(しばしば)独奏的旋律を以て「笛吹き女」を表はされ、最初に現はれる旋律は始終ヴァリエーション的に変形を以て、種々なる楽器に現はされ、その間、エピソードを含みつゝ、第二義的主題が二三、ロンド風に然も変形されつつ現れる。かくの如く、独唱を除きても殆ど独立せる音楽をなせど、全体としては勿論、純形式的器楽曲の如き厳格さを持たぬ。』(文は旧字体を新字体に改めた) 
 この作品のポイントは、冒頭に現れるソロ・フルートの主題を中心としたロンド風変奏曲であることと、歌唱が一部"朗読調式"であるという、二点である。翌年に作曲された「舞」では、この"朗読調式"が一層鮮明となる。作曲者が24歳の時の作品であるが、演奏時間は15分を超え、場面に応じて様々な様相を表す美しい管弦楽伴奏を持つ大作である。驚いたことに、この若い作曲家は同じ1928年に、ほかにも優れた作品を書いている。歌曲では、この作品を含めた三部作となる「黴」「斑猫」であり、管弦楽作品としては、オーケストラ・ニッポニカが2003年2月に発掘、再演した「感傷的諧謔」である。驚くべき24歳の才能。
 作詞した深尾須磨子は夫を亡くした後、約10年間、荻野綾子と共同生活を送った。荻野の第一、二次フランス留学へは深尾も同行した。ふたりの生活は、新聞にスキャンダラスに書かれることが多かったが、真に創造的な共同生活であったという。そこから、橋本の三部作も誕生した。深尾は、荻野が歌やハープを学ぶ傍らで、フルートを学んだ。帰国後は、深尾のフルートと荻野のハープで演奏会を開催することもあった。深尾とフルートのイメージは、固く結びついている。
 ここで少し、この作品の詩を吟味してみたい。この詩は、荻野のリサイタルの最後を飾るにふさわしく、華麗な起承転結を持っている。第一章は、笛を吹く女の生きる姿勢を詠う。第二章は、笛の由来を説く。第三章は笛に託した女の愛情と密やかな心情を詠う。第四章は、形而上的な、笛に託した祈りの気持ちを申す。第五章は、四章から一転して形而下的、道化的空想景色。第六章では、現実の生活に引き戻される。次の章から連想は膨らみ、新しい展開に入る。第七章は、己をピエロと呼ぶ心象風景そのT。第八章は、己の心象風景そのU。第九章は、一層突詰めた心象風景そのV、そして笛に託す希望。第十章は、自虐と諦念。第十一章は、昇華と自己解放。第十二章は、聴衆に訴え掛けるかのように、「愛と海の詩」のキー・ワード"りら"と"月"を散りばめて、リラの香りを込めた音色の曲を"酔ひたまへ"と差出して終わる。
 リラの香りを音に込める意は、既に第三章に現れている。"音はむらさきの秘めごとに候"。リラは春に淡い紫の花をつけて、紫丁香花と書く。ちなみに花言葉は、友情、大切な友達である。ただし、1928年時代に花言葉があったかどうかは定かではない。さらに、第七章、第八章、第十章に出る"ぴえろ"、"哀し"、"おどけ"などの言葉は、文字どおりピエロを喚起させる言葉である。この言葉たちは、第十二章の"月"とあわせて、シェーンベルクの「ピエロ・リュネール(月に憑かれたピエロ)」(1912)の異国趣味の遠い木魂(こだま)として耳に残る。「ピエロ・リュネール」は、語るように歌う"シュプレッヒゲザング"という歌唱様式を導入したことで著名な作品であるが、連想ゲームとして「笛吹く女」の"朗読調式"という橋本の音楽様式につながる。
 それから、"笛吹き女"とは一体誰のことであろうか。当然、フルートをたしなんだ深尾自身のことを詠った、と考えるのが順当であろう。しかし、"笛吹き女"を"歌う女"と置換えて詩を読んで頂きたい。私には、歌う荻野綾子を見守りながら、この詩を荻野のリサイタルのために書く深尾の姿が見えてくる気がする。人生の喜びも悲しみもその胸の内に宿して、生活の中で歌を歌えば子犬は立止まり、すずめは踊る。荻野の歌声は、奇跡。今宵はリラの香りにのせて歌を歌います、聴衆よ酔いたまえ、と。この詩は、深尾から荻野のリサイタルへの贈り物として、ショーソンの作品を意識して書かれたのではないだろうか。もちろん、"笛吹き女"に深尾自身の存在も同時に重なるのである。アンドロギュノス的な、両性具有的な詩とも読める。
 加えて、詩自体が候調で固く見える一方で、当時としては珍しく押韻や、似た響きの言葉をリズミカルに繰返し、またそのリズムを時折破る、日本の詩歌としての現代性を持っていることを指摘しておきたい。
【初演】1929年5月23日 新交響楽団 指揮:近衛秀麿 独唱:荻野綾子 日本青年館
【楽器編成】2fl(picc持替),2ob(cor-i持替),2cl(b-cl持替),2fg,4hrn,2tp,3tb,tub,tim,bd,cym,sd,tri,t-t,glo,hp,celesta,弦楽5部,独唱S
【使用楽譜】スコア:日本近代音楽館所蔵 パート譜面:オーケストラ・ニッポニカ作成

ショーソン 交響曲 変ロ長調 (1890)
 エルネスト・ショーソン(1855〜1899)は、パリで生まれた。法律を学んだ後にパリ音楽院でジュール・マスネ(1842〜1912)とセザール・フランク(1822〜1890)に学び大きな影響を受けた。新婚旅行の際にもワーグナーの楽劇を聴くほどワーグナーに心酔した。ショーソンは歌曲の分野に最も才能を発揮したが、この交響曲は三楽章形式、且つ循環形式を取り、転調の多様、その叙情性などが、師フランクからの決定的な影響を受けていると言われている。
 ショーソンは1887年に、自国フランスの作品を普及させる目的で創設された国民音楽協会の書記長に就任して、協会の演奏会の開催に尽力する。この交響曲の創作は、この多忙な時期に重なっている。
 パリのオーケストラの歴史は、ドイツ音楽を演奏する団体と、フランス音楽を擁護する団体によるシーソー・ゲームのようで、興味深い。1807年にドイツ国外では初めてベートーヴェンの交響曲を演奏したパリ音楽院のオーケストラは、その後も繰返しベートーヴェンを演奏し続けた。これを、あまりにエリート愛好家のものになりすぎていると考えたジュール・パドルー(1819〜1887)は、1851年にコンセール・パドルーというオーケストラを創設して、大衆向きの低料金で演奏会を開催して活発な活動を行ったが、なんとワーグナーの音楽を広めることに尽力したのであった。これに対する反動のように、1873年には出版商人がフランスの新しい音楽を世に問うために、コンセール・ナショナルを設立する。翌年、指揮者エドゥアール・コロンヌ(1838〜1910)がこれを引継ぎ、コンセール・コロンヌというオーケストラに改称して、シャトレ座を本拠地に、ベルリオーズ、ビゼー、サン=サーンス、フランク、フォーレ、マスネ、ダンディ、ドビュッシー、デュカス、ラヴェルなどを演奏し擁護し続けた。1881年に設立されたコンセール・ラムルーというオーケストラは、バッハ、ヘンデル、ベートーヴェン、シューマン、メンデルスゾーン、ワーグナーなど、ドイツ音楽の傑作を演奏し続けた。
 ショーソンは国民音楽協会の書記長としてフランス音楽を擁護するために、コンセール・ラムルーなどの活動に対抗していたはずである。オーケストラ・ニッポニカは、東京のコンセール・コロンヌと言ったら冗談が過ぎるだろうか。恐らく1923年、橋本國彦の歌曲「舞」を、P.コッポラが管弦楽編曲・指揮して、荻野綾子の歌でSP録音した。この録音記録にある「パリ交響楽団」というのはどこのオーケストラであったのだろう。
【初演】1891年4月18日 国民音楽協会オーケストラ 指揮:エルネスト・ショーソン サル・エラール(パリ)
【日本初演】1952年1月17日 東京交響楽団 指揮:上田仁 日比谷公会堂
【楽器編成】3fl(picc持替),2ob, cor-i,2cl,b-cl,3fg,4hrn,4tp,3tb,tub,
tim,2hp,弦楽5部
【使用楽譜】サラベール社

 最後に、この拙稿を日本放送作家協会九州支部長の香月隆氏に捧げたい。氏は荻野の生地九州福岡での荻野綾子に関連する番組を手掛け、さらには荻野の評伝を執筆し終えている。志ある出版社の出現を待っているのである。多くの人々がこの評伝を手にすることができるよう願ってやまない。