《賛否両論?! プリングスハイムのオケコン》

《賛否両論?! プリングスハイムのオケコン》  「管弦楽のための協奏曲」ばかり、四曲を集めた演奏会。欧文による表記「Concerto for Orchestra」を略して“オケコン”と呼ぶことがある。題して、《賛否両論?!プリングスハイムのオケコン》。指揮者は、オーケストラ・ニッポニカのミュージック・アドヴァイザーである野平一郎。
 クラウス・プリングスハイムは、南ドイツのミュンヘン郊外に生れた(双子の妹カチャは、後に文豪トーマス・マンと結婚する)。彼は、ミュンヘン大学で哲学、心理学、数学、物理学を学ぶかたわら、作曲も並行して学び、交響詩やピアノ協奏曲などを発表。その後、指揮者を目指して、ウィーンでマーラーの弟子となり、宮廷歌劇場の無給のコレぺティトールとして修業を始めた。この時に、B.ワルター、0.クレンペラーと知り合う。ブレーメン市立歌劇場総監督を務めた後にベルリンへ移り、指揮者A.ニキシュが亡くなる直前のベルリン・フィルハーモ二一管弦楽団に招聘されて、マーラーの交響曲第6番、第9番などを指揮した。W.フルトヴェングラーがベルリン・フィルの常任指揮者に就任してからも、1923年から24年にかけてマーラー・チクルスを指揮した。ちなみにプリングスハイムは、1950年代60年代にもベルリン・フィルに度々招聘されて、マーラーや松平頼則、黛敏郎などの作品を指揮している。華々しい活躍ぶりだが、1920年代後半はオーケストラや歌劇場のポストに恵まれることがなかった。
 1931年(昭和6年)、彼は、東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)から、オーケストラ公演監督、合唱監督、及び作曲講師として招聘されて、来日する。即、日本でもマーラーの連続演奏に意欲を燃やし、1932年に交響曲第5番、33年に第2番、34年に第6番、35年に第3番を指揮して、安部幸明、山田一雄、柴田南雄らに多大な影響を与えた。
 クラウス・プリングスハイムの「管弦楽のための協奏曲」は、1935年の初演の時に、日本の作曲家や評論家から酷評を浴びた。1974年に山田一雄の指揮によって再演されたが、その後は演奏楽譜が行方知れずとなり、忘れられて、50年間眠っていた。
 「管弦楽のための協奏曲」と言う楽曲形式は、1925年にドイツの作曲家 P.ヒンデミットが考案した。1700年代のバロック音楽の「コンチェルト・グロッソ」形式に着想を得た「管弦楽のための協奏曲」は、20世紀の新古典音楽の形式のひとつとなった。それは、ロマン派音楽の残照の中で、1900年代初頭まで肥大化の一途をたどった「交響曲」形式から脱却する試みでもあったろう。
 一生涯、「交響曲」の形式を使わなかった三善晃は、日本で最初に「管弦楽のための協奏曲」(1964年)を採用した作曲家だ。1963年、“オリンピック東京大会協賛芸術展示”のために、これを作曲した。
 「大阪のバルトーク」と呼ばれた大栗裕は、おそらく日本で2番目に「管弦楽のための協奏曲」(1970年)を書いた作曲家である。大栗は、指揮者・朝比奈隆のドイツ公演のために、これを作曲した。
 B.バルトークの「管弦楽のための協奏曲」(1943年)が、近代オーケストラ音楽の傑作であることは周知のこと。この傑作の3年前に、彼の先輩にあたる作曲家Z.コダーイは、シカゴ交響楽団からの委嘱で、この形式により作曲した。
 プリングスハイムは、コダーイの作品よりもさらに5年早くこの形式を採用した。スコアの序文には、こう書かれている。「日本音楽の直感と伝統と又西欧音楽の形式と表現との正当なる且つ又未来ある総合化を目的とした試作なのであります。」「西洋の音楽家にして多分なし得ることは、日本の新しい芸術家に歩み得る路を知らしめ、試みと例を示しつつ、確実な路を先行することのみであります。」
 プリングスハイムの “オケコン”に対する初演当時の非難は、はたして妥当であったのか? 是非、あなたの耳で確かめて欲しい。