隠者とモダニストとアルチザン
「2004年3月7日第4回演奏会プログラム解説より転載」
片山杜秀(かたやまもりひで・評論家)
−−菅原明朗と伊藤昇と深井史郎のこと−−
菅原明朗と伊藤昇と深井史郎。この3人の作曲家はみな、期間の長短はあるけれど、ドビュッシーやラヴェルや「6人組」といったフランス近代、あるいはより広くラテン系の音楽に興味を抱いたことがあった。しかも、3人の中でいちばん年長の菅原は、伊藤の作曲の才をいちはやく認め、彼を世に出すのに一役かった。また深井を弟子にして、彼に強い影響を及ぼした。その意味でこの3人は、菅原を首領とする共通の楽派に括ることもできる。しかし、といって彼らは、作曲家として必ずしも似た者同士であったわけではない。むしろラテン趣味なる共通項を外せば、彼らはあまりに互いに違う。そしてその相異は、3人が作曲家として名を成したそれぞれの時代と密接に関連しているだろう。時代といってもほんの数年ずつしか違わないのだが、激動の大正・昭和にあっては、たった数年が大きく物を言う。菅原と伊藤と深井の個性は、順に大正、昭和最初期、昭和10年前後の時代精神を、見事に代弁しているのである。
まず菅原明朗。1897年、明治で言えば30年に、菅原道真の裔という明石の旧家に生まれた彼は、大正精神、より正確に言えば日露戦争終結以後の時代の精神の申し子だった。日露戦争までの日本は、何はさておき文明開化、列強に追いつき追い越せで、軍事から文化まで、いかに能率的に素早く先進国なみの水準に到達するかに、国民一丸となって賭けてきた。しかしロシアに一応勝ったことで、「坂の上の雲」に向かって緊張し無理に背伸びし駆け足してゆく時代は終わった。何だか時間がもう止まって、呑気に浮遊する感じになり、これからは個人が人生をたっぷり使いながら、時流に翻弄されることなく、のびのびと学び楽しみ、すべてを知り尽くし、真実というか、おのれに一番ぴったりくるものを最終的に究め、自身を一個の人格として立派に完成させてゆくべきだという風潮が広まった。大正の自由主義や個人主義や教養主義や人格主義と呼ばれるもの、あるいは晩年の夏目漱石の描いた高等遊民の世界はそのへんから出てくる。
菅原は、そういう時代の生んだ、まるで高等遊民的な音楽家で、吹奏楽との出会いを大きなきっかけとして音楽に惹かれてゆきながらも、音楽学校ではなく画学校に行き、海外に留学して立身出世をはかるよりも、万巻の楽譜やその他の書物を携えて、古都奈良に7年も引き籠もるような青春を送った。そうした勉強の仕方で、彼は音楽のみならぬ総合的教養人をめざし、作曲家としては、大正のうちに次の如き立場にとりあえず達した。それはつまり、世界の一流に慌てて伍そうとし、西洋音楽は何といってもバッハやベートーヴェンの国がいちばんと、瀧廉太郎も山田耕筰も信時潔もドイツに留学した明治的選択はどうも適切ではなく、日本人の5音音階好きな伝統的音感に即して考えれば、フランス近代の、教会旋法や全音による6音音階やアジア的な5音音階まで積極的に用いた音楽こそが模範とされるべきだという立場である。かくて菅原は、日本作曲界に於ける「フランス近代派」の領袖のように、昭和の初めにはなった。伊藤昇や深井史郎、宅孝二や高木東六や古関裕而や服部正、宮城道雄や永井荷風が彼の周辺に集ったのには、それぞれ色々な理由があるけれど、結局はフランスの縁だろう。昭和の初めには、音楽に限らず、文学も映画も哲学も、フランス的なものが新しさを保証してくれる大きな希望の星だったし、音楽に関して日本からフランスへの扉を開く鍵を持っているのはやはり菅原だと、大勢が彼に期待した。
しかし、あくまで大正的人格の化身で、何事からも超然と振る舞いたい菅原には、時代の流行や先端を担ってひた走ろうなんて意欲はなかった。気の向くままに学び、知を蓄えて深め、本当に気に入るものを探し求め、自らの人格を完成させたいだけだった。結果、はや戦前のうちから菅原は、フランス近代音楽への懐疑を深めた。それが感覚的・技巧的に過ぎ、精神の高さ・敬虔さを欠いているようで、我慢できなくなった。そして、フランス近代への志向を一過性のものだったとばかりに突き放してゆき、同じラテン系ではあるが、教会旋法への志向がフランス近代よりも強いイタリア近代音楽、特にピッツェッティ的な高貴な響きへと傾斜して、そこから更にどんどん、グレゴリオ聖歌に集約される、典雅で自由で何ものにも縛られず高いところを神々しく飛翔しているような音感に身を委ねていった。もともと菅原には、古代貴族の子孫らしく、古典主義的に均衡のとれ、俗な感情から遊離した心境に憧れる、みやびなところがあったし(*だからこそ若いうちに奈良に引き籠もったりしたのだ)、高等遊民風に着地せず漂う生きざまをそのままふわふわした音に反映させる好みも作曲家としての体質になっており、おまけにそこにカトリック信仰まで加わってくるとなれば、究極のみやびを保証し、芸術家を高みに飛ばしっぱなしにしてくれるものとして、常に大聖堂の天蓋のあたりを浮遊するようなグレゴレオ聖歌の音調が最後に選ばれるというのは、いかにも尤もとなるだろう。とにかくこのように菅原は、常に隠者みたく超然としながら、ゆっくりと学び、知り、極め、人間としての完成を目指し続けたのである。
次に伊藤昇(*筆名を能矛留としたこともある)。1903年、明治なら36年に生まれ、軍楽隊や無声映画伴奏オーケストラの現場でトロンボーン吹きとして叩き上げられ、作曲を山田耕筰に師事した彼は、昭和初期のモダニズム文化の、まぎれもない体現者であった。
昭和のモダニズムというのは、源を尋ねれば、1923年(大正12年)の関東大震災まで遡るだろう。その地震は、江戸の匂いをまだ豊かにとどめていた日本の首都を焼き尽くし、日露戦争後、それなりに世界の中で上り詰めた気になってのんびり構えていた日本人に喝を入れた。建て替えや生まれ変わりへの願望、既成の価値観をいちどきに清算したいとの欲求が、たちまちこの国に満ちた。そこに、工業化・電化をますます進展させ、飛行機と自動車とラジオと映画と摩天楼に彩られた、第1次大戦後の西洋文明の流儀がどしどし入ってくる。また、それに伴い、国民の生活や教育の水準も底上げされ、文化・芸術の受容層も、教養を求める高等遊民的一部特権階級から、流行を求める都市大衆へと拡大しだした。そんなこんなが折り重なって20年代後半、つまり昭和の初年頃から急速に現出したのが、スピードやシャープさや新奇さや動態性をひたすら尊ぶ、いわゆる昭和のモダニズム時代である。
そうした風潮を受け、伊藤はまさに新奇な音楽の旗手、先鋭なモダニストとして、昭和の初期に登場した。彼は、複調、多調、無調、フリー・リズム、ポリリズム、微分音階と、海外から仕入れられる情報の限りを尽くして、新しい手法を片っ端から試し、管弦楽から器楽、声楽まで幅広く創作した。作曲家で言えば、「6人組」のミヨーやオネゲルといったフランスの新しい傾向、加えてシェーンベルクにハーバなどが彼の興味の対象で、そのへんのうちのフランスつながりから、菅原と近しい部分もできた。
しかし、伊藤は、そうした先鋭な志向からのみ語られるべき存在ではない。なぜならモダニズムというのは、新しさを欲し前衛に突き進むからモダンであると同時に、先述の如く都市にひしめき流行を追って狂奔する大衆と添い寝してこそのモダニズムでもある。つまり正しいモダニストとは、芸術自体の最先端と都市流行の最先端の両方をやり、前衛と通俗の両極端へと股裂きになるものなのである。その点、伊藤のモダニストぶりは完璧だった。彼は大衆には縁遠い奇妙な音楽を仕立てる前衛作曲家であると同時に、映画会社の東宝と日本放送協会を主たる仕事の場として、ジャズをやり、エノケンの喜劇映画や大河内伝次郎の『丹下左膳』や天中軒雲月の浪曲映画のために平明な伴奏音楽をつけ、芸者歌手、市丸のために歌謡曲を書き、日本全国の民謡をラジオ番組のために編曲し、戦時期には《南海の島》《北方基地》《昭南島》という「時局物管弦楽組曲三部作」を発表する人でもあった。モダニストに求められる両輪を、伊藤はきちんと兼ねていた。そういう芸当をその時代にやりおおせていたのは、あとは橋本國彦と大澤壽人くらいしか居ないだろう。
そして深井史郎。彼は1907年、明治にすれば40年に秋田で生まれ、高校は鹿児島に行き、昭和のモダニズムが花開いたあと、つまり菅原は既に大家で、伊藤は既に先鋭な作曲家であった1928年(昭和3年)になってやっと東京に出、菅原に師事し、本格的な作曲修業をはじめ、伊藤より更にひとつあとの時代を背負う音楽家になった。その時代とは、1931年の満州事変で予告され、それから6年後の日中戦争全面化以降、いよいよ明らかになった頃合いのことである。
戦争が始まり、植民地・支配地が拡大し、それに伴って世の中で緊急に処理すべき案件が、政治から文化まで、あらゆる領分で山積みとなり、おまけに国際情勢は政治・経済・軍事のどの面でも混沌としてくると、菅原明朗的というか大正的というか、超然としてすべてをのんびり見通す態度など、政治家としても企業家としても文化人としても、完全に時代遅れ扱いされるようになった。なぜなら、このあまりに複雑怪奇な現代を、ひとりで理解し尽くし悟りきるなど、誰の目にも、もはや不可能事と思われたから。また、伊藤昇的というか昭和初年的というか、モダニズムの姿勢も色あせて来た。世の中で日々現実に、政治や経済や社会の局面に於いて、ギョッとするような斬新なことが次々起こるようになったので、個人が新感覚・新発想を気取っても容易には目立てなくなってしまったから。では、そういう時代に求められたのは誰か。それは芸術家より職人であり、哲学者より官僚であり、詩人より実務家である。全体をひとりで押さえたり、導いたりすることが出来なさそうに思われる時代には、別に戦時期の日本に限らず、求められる価値観・人間像が必ずそういうふうに交替するものなのだ。世界のすべてについて個人で偉そうに思索するのが無理と思われたら、個人はごく限られた何かの領分についてプロフェッショナルになるしかない。一芸一道だ。自分の縄張りの中で技術を錬磨する。曖昧な要素を払い、徹底的に合理的に思考し、職人芸を鍛え上げる。その意味で戦争の時代は、現在ではよく神がかった精神主義者が支配していたと思われているけれど、実際は、軍事から文化まで、アルチザン(技術家)が求められた時代であった。たとえば東条英機はなぜあの時期に首相に選ばれたのか。それは、彼が国家を指導するに足る高い精神性を有していると認められたからではない。「カミソリ東条」だったからである。つまり東条はよく切れて素早く仕事のできる実務家の代表と信じられていたからこそ、1941年の指導者に相応しかったのだ。
深井は政治的には軍国主義者でも何でもなく、むしろリベラルだったが、音楽家としては背景となった時代の思潮をもろにかぶった。彼は菅原のように、音楽で宗教的人格を高めようとは思っていなかったし、伊藤のように新しいことをやればそれで満足ということでもなかった。深井は音楽に合理性や明快さや実際性や人工美や即効性を求めた。精神とかロマンとか霞みたいなものは退けられた。彼の楽しみは、あるモデルに基づいて完璧に吟味され彫琢された楽曲を仕立てることで、そのモデルは当然、理知的で明晰なものでなけれえばらなかった。なら、具体的に彼がモデルとして見いだしたのは何か。それはストラヴィンスキーと特にラヴェルのオーケストラ音楽である。ほとんど精密機械の設計図のように隅々まで計算し尽くされ、曖昧さのかけらもなく、膨大な音符を操るこの2人の巨匠の近代的職人性こそが、彼を魅了した。そして深井にラヴェルの魅力をたたき込んだのは、師の菅原だった。それゆえ深井は生涯、菅原を敬愛したが、菅原はというと、深井に冷淡だった。「深井は頭が切れすぎたのが不幸だった」というのが、菅原の決まり文句だった。そう、深井は東条と同じカミソリだったのである。そして音楽の精神的深さを問題にする菅原から見れば、表層の技術以外の何物をも信じようとしない深井の、アルチザンに徹した、ほとんど虚無的とさえ言える態度は、やはり我慢のならないものだったろう。そこに大正と昭和の精神の、埋めようのない裂け目がある。ちょうどその裂け目が出来てゆく過渡期を、深刻ぶらずに楽しんでいたのが伊藤昇となろうか。
いずれにせよ、この3人の音楽の対照は、近代日本の精神史を陰翳豊かに表現する。
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