テーマの交差

間宮芳生、木島始とも、すでにその創作の初期において生涯を貫くテーマを見出し、取り組み続ける芸術家にほかなりません。そしてオペラ「ニホンザル・スキトオリメ」は、両者のテーマが見事に交差して生まれた作品といえます。以下、それぞれが自身のテーマについて語った文章の一部をご紹介します。

間宮芳生の場合~『現代音楽の冒険』より

■「足の裏の音楽」の宣言

※オペラ「ニホンザル・スキトオリメ」作曲の翌年(1965年10月30日、外山雄三指揮・NHK交響楽団特別演奏会)において「オーケストラのための2つのタブロー・’65」(第14回尾高賞受賞作品)が初演された際のプログラムに掲載された文章。間宮芳生の創作姿勢を端的に示すものとして知られています。この「宣言」の、『現代音楽の冒険』(1990)における間宮自身による引用から抜粋してご紹介します。

黒人はなぜ、つまさきでなく、かかとでリズムをとるのだろう。
ブルースは、アメリカの黒人の心の悲しみからしぼり出されたメロディーだが、それをすべての黒人達の怒りに組織するのは、そのメロディーを支えるオフ・ビートのリズム。そしてそれは、彼らの足がアフリカからも持って来た、いわば彼等の足の裏の記憶なのだ。
このところ、ぼくは、「足の裏で感じ、足の裏で考える音楽」という考えにとりつかれている。これは根本であり、すべての音楽現象のふるさとであり、音楽の生き死にを左右する重大事なのではないかと。そして音楽の歴史とは、人が音楽をとらえ、音楽を考える「からだ」の部分が、足の裏から、次第に上へ上へと昇って来た歴史ではなかったかと。……ことにヨーロッパでは。ヨーロッパの音楽の、ぼくらがいま古典と呼んでいる、十八、九世紀の音楽などは、そうした長い歴史の中での、ごく新しい、またごくありふれない・・・・・・特殊な上ずみのようではないか、とも。
官能がとらえ、官能にうったえるような音楽はまた、さまざまな文明が産んだ音楽の古典において、基本的に重要な音楽の世界ではなかったか。グレゴリオ聖歌のエロティシズム、また雅楽の、琵琶びわ音楽のエロティシズムなどは、そうした見事なわざであるだろう。マショー(十四世紀フランスの大作曲家、代表作に華麗な「ノートルダム・ミサ」などがある)の壮大な、デュファイ(十五世紀ネーデルランド楽派の大作曲家)の甘美なエロティシズムまたしかり。そしてそれはしばしば復活して、モーツァルトに、ワーグナーに、ドビュッシーにあらわれる。インドの古典音楽、またガムラン音楽などは、足の裏がとらえたヴァイタリズムと官能的美とが見事に統合された、至上の音楽遺産ではないだろうか。
(中略)
たかだか数秒しか要しない、しかし大そう魅惑的なリズム・パターン、あるいは楽想がとらえられたら、それは執拗にくりかえすしかなく、けれどもくりかえされる程に人をとらえて離さなくなるような、決して終わってほしくないような、弾きはじめたら、誰かが腕ずくで止めさせなくては決して弾き止めたくないような、そんな音楽があるはずだ。(阿波踊りのことじゃない――いやあれこそ、そんな音楽の決定版だろう、たしかに。)ところが、そんな音楽があるはずだし、あったということが、いまのヨーロッパ人のほとんどには、まるで理解できないらしい。あのグレゴリオ聖歌という、見事に官能的な音楽美の世界を持っている彼らの精神も、感性も、すっかり偏平足になってしまったのだろうか。
こんないろいろなこと(それはただ一つのことと言ってもよいのだが)を問い続けて来たことが、こんどの「オーケストラのための2つのタブロー・’65」の発想につながっている。だが作品の中でも、ぼくはまだまだ問いつづけっぱなしで終わってしまっているようだ。

 


※オペラ「ニホンザル・スキトオリメ」における多種多様な歌唱表現、および各景に登場して重要な役割を担う合唱の歌唱表現は、初期から生涯を貫く間宮の探究と創造の大きな柱です。主著『現代音楽の冒険』より、関連する著述を一部抜粋してご紹介します。

■「Ⅰ 現代音楽への出発」より

激動の世紀・激変する音楽
今世紀は、人類の歴史の中でも類例のない「激動」の世紀だと言われることがよくある。だた、どの時代に生れても、いまこそが例のない異常な時代だ、たいへんな激動の世紀に生れてきてしまったと思うものなのではないだろうか。たとえば十字軍の頃のローマ帝国の人びと。末法の世といわれた平安の末の動乱の中に生きた京の人びと。アフリカの海岸から奴隷船でアメリカ大陸へ運ばれた人びと。黒船を見て、そして明治の「御一新」を経験した日本人、などなど。
火薬、(文楽)、植民地、(オペラ)、印刷術、蒸気機関、奴隷商、(印象派)、ラジオ、爆撃機、人種差別、(ジャズ)、ペニシリン、核爆弾、サリドマイド、人口爆発、人工海岸、コンピューター、ICBM、原子力発電……
これらは、ここ数世紀の間に人間が造り出してきたことどもだ。もちろんごく一部分にすぎないけれど、いわば代表格のつもりである。数世紀は人類の全史から見ればほんの束の間、宇宙の全史から見たなら、なおさら、ほとんど瞬間だ。その束の間にしては、——カッコに入れたものは、これはかけ値なしに美しきものだが——その幾層倍のなんとおぞましきことどもの加速度的量産なのだろう。ことに今世紀は。
音楽もまた例外ではあり得ないわけで、この世紀は、まことに目まぐるしい変化、美意識の変動の時代といって間違いないだろう。
(中略)

『合唱のためのコンポジション第一番』
旋律線を(中略)数量的に解析することにどれだけ意味があるか、少しわからなくなって、というよりは「ハヤシコトバ」の方がめっぽう面白くなって、この種の解析作業はやめてしまった。その代りに、リズムの分析と、「ハヤシコトバ」の音韻による分類作業を、別のノートに記録していた。
その作業は、リズムについては論文になり、ハヤシコトバの方は、理論的著作になるかわりに、ハヤシコトバばかりで詞を構成して作曲した無伴奏混声合唱のための作品「合唱のためのコンポジション第一番」(一九五八年作)、つまり音楽作品の形になった。以来ずっとシリーズで一九九〇年の現在まで十二作ができた。
ハヤシコトバの音韻のバラエティは驚くばかりで、日本語の中にあるほとんどあらゆる可能な音韻の組合せを含むといっていいくらいだ。
(中略)
前にも書いたように、民俗音楽の旋律構造の分析作業も、途中でやめてしまったが、実はメロディーの分析には、伝承する人のメロディーの聞き方の問題が含まれていると知ったからなのだ。この言い方では解りにくいだろう。たとえば自分が手にしている旋法の理論で解析して得られた理論中心音と、伝承する人々の聞いている心理的中心音が一致しているかどうかいつも確かめなければ、理論は意味を失う。それを確かめるには、みずから伝承の鎖の中の一人になって、旋律をならいおぼえ、感得するのがいちばんだ。民俗音楽の解析はこの倣いおぼえがほとんどすべてだと気づく頃が、「コンポジション第一番」の作曲のプロセスと重なる頃だったから、曲ははじめの意図からはるかに飛び出してしまった。
むしろ民俗音楽の構造を解体し、構造の底にある原音楽的身ぶりへの再生のプロセスを一作ごとに試し直すという全く非能率な道を選ぶことになっていった。
そしてそれはまた、アカデミックな訓練を通ってつくられた声の技術(発声)を、時にははげしく拒否する、今も続く私の声の表現の実験の出発になったものであった。

 

■「II 映画、詩、そして「弦楽四重奏」」より

野田真吉の仕事
一九五八年の暮、「私の民族主義の方法」と、いかめしい題をつけたエッセイを書いて雑誌『映画批評』の十二月号に寄稿している。これは私のハヤシコトバとの出会い、その分類と分析の作業、そしてハヤシコトバを構成した詞で書いた「合唱のためのコンポジション第一番」の作曲に到るプロセスを自己分析した内容だった。 なぜ音楽雑誌でなくて『映画批評』だったのかについては少々説明が必要である。
その年に、たまたま記録映画作家野田真吉の代表作のひとつ「忘れられた土地」のための音楽を書く仕事をした。(中略)
野田は「忘れられた土地」も含めたそれらの映画を作る過程で、数多くの民俗伝承音楽を知っていたから、民俗の中の原音楽的な身ぶりを吸い上げて構成しようとした私の「合唱のためのコンポジション第一番」に強く興味を持ったのだと思う。彼が当時編集委員をしていた雑誌『映画批評』に、なぜあんな曲を書くことになったか是非書くように私にすすめたというわけである。
つまり映画音楽の仕事が野田真吉との出会いの機会をつくってくれて、それで自分の創作上の主題や方法について自己分析する機会をもらったと考えれば、これは映画の仕事からのとくということになる。いわばおまけの得だが、得は他にもいろいろある。(中略)映画の内容や映像表現の形が求めるものに応えて、自分にとって新しい音楽のスタイルの開拓や実験の場になることもある。映画のために書いた音楽が下敷きになって、演奏会用の純音楽作品が生れたこともあった。
たとえば「鳥獣戯画」(合唱のためのコンポジション第五番)という作品は、中世日本の傑作絵巻のひとつ、『鳥獣戯画巻』の巻の一を、一篇の動く絵巻にした映画「鳥獣戯画」のために作曲した音楽がもとになってできた。動物のかたちで描かれた画面から、中世を生きた人間たちの生きざまが見えてくる。たわむれ、働き、叫び、笑う民衆の声が聞こえてくる。そしてこの映画のための音楽は、そして「合唱のためのコンポジション第五番・鳥獣戯画」)では、第一番のときと同様にハヤシコトバによる構成という原則をとりながら、声と音の身ぶりによって「可笑おかしさ」「わらい」をあらわすという新たな実験にとりくんだ。声が笑いの形で歌うところもあるが、それよりも、声の身ぶりと語り口が、聞くものを「可笑しさ」「わらい」へ惹き込む力を持つ表現に達することだった。一九六六年のことである。

黒田喜夫の詩の衝撃
この章の主題は、本当は詩人黒田喜夫(一九二六−八四)との出会いのことなのだ。そのまえに回り道が長くなってしまった。
(中略)ある日、野田真吉がだまって一冊の詩集を貸してくれた。それが黒田喜夫の詩集『不安と遊撃』(一九五九年十二月刊)だった。(中略)
『不安と遊撃』は私を夢中にした。黒田が刻みしるしたことばは、「きしみ」「あえぎ」ながらも美しい。それらのことばを、私はどうしても自分の音楽と出会わせたいと思った。
(中略)
「原点破壊」から弦楽四重奏曲へ
(中略) 黒田の没後に刊行された『黒田喜夫全詩』(思潮社)にはさみ込まれたしおりに私が書いた文から引用しよう。(中略)
目次のページの”毒虫飼育”と”原点破壊”にエンピツで印がついて、前者のそばに「ナレーションまたはヴォーカルプラス弦楽四重奏プラスジャズ」、後者の印のそばに「打楽器プラス(プラス)アルファ、コーラス」と書き込まれている(私が書き込んだという意味である)。後に”原点破壊”の方を、声と弦楽四重奏でというプランに変えた。(中略)”原点破壊”の声のパートのためにその詩行と格闘数旬、立往生するうちに勝手に弦楽四重奏のパートのみが、どんどん書き上ってしまった。それがぼくの弦楽四重奏曲第一番(一九六三年発表)である。
(中略)

シェーンベルクからの示唆
結局、書かれじまいになったこの詩による声のパートを、どんなスタイルで作曲しようかと考えはじめたとき、まっさきに頭に浮んだのは、シェーンベルクの作品「ワルソーからの生残り」のナレーターのパートだった。(中略)
この曲が頭に浮んだというのは、つまり通常の「うた」を逸脱した声の表現力の拡大が必要だと考えたからで、同じシェーンベルクの初期の傑作「月に憑かれたピエロ」の声のパートの扱いを思い浮かべることもできたわけだ。こっちの方は、いわゆるシュプレッヒ・ゲザングの代表例のごとくしばしば論じられる曲で、(中略)通常の「うた」でなく、音符のつらなりが示すリズムと抑揚に従いながら話すスタイルでうたう・・・・・・・・・ことが求められている。それがすなわちシュプレッヒ話すゲザングうたうだ。「ワルソーからの生残り」のナレーターのパートは、リズムは確定的に、だがピッチの方は五線の楽譜を使わず、ことばの抑揚につれての相対音高だけが示されている。部分的に、鋭いシャガレ声で怒鳴れ、との指示もある。
『原点破壊』を音楽にしようとするときに要求される声のパートの形は、さらにもっといろいろで、かつ生々しくありたい、と思った。恐怖と飢餓感と、倒錯した官能、血のにおいのする修羅場の表現のためには、声はもっと荒々しく、あえぎ、きしみ、時に鋭く切りさかれるように叫ぶだろう。
(中略)

■「III 二人のジョン――ケージとコルトレーン――」より

磨かれ、鍛えられた伝承の美しい形
はやしことばの章にも書いたことだが、私が日本の民俗音楽に関心を持ち調べはじめたとき、その主要な目的は、社会の基層の文化としての民俗は、芸術の伝統の根、いわば母語の体系なのだから、その民俗の形から民族的な音楽語法を、つまり確かな自分の語法はそこから求められなければならない、ということだった。
一九五七年に、ある音楽雑誌に「日本民謡のリズム」と題する研究論文を発表した、基層の文化の中で日本語がメロディーつきで歌われるとき、というのはつまり民謡ではということだが、ことばと音楽との関係はどうなっているだろうか。そこに型があれば探し出そうという作業だった。特に「日本のリズム」と言えるリズムの型を抽出しようというのが、その論文の内容だった。(中略)同じ頃に手をつけはじめたハヤシコトバの分類作業とともに、この分析作業の結果は私の大切な財産になった。
だが、民俗文化が真に大切なのは、もっと別の理由からなのだということも見えてきた。それは、世代を超えて受け継がれ、うたい継がれながら鍛えられ、磨かれた美しい形、芸術のすばらしい規範であるすぐれた単純さである。でもそれは、形式や語法の単純さの意味ではなく、むしろ精神の明快さと、優しさなのだ。民俗音楽を聞き、分析する作業をするということは、そういう規範に常に触れていることになる。
(後略)

〔間宮芳生著『現代音楽の冒険』(岩波新書, 1990年)所収〕

 

木島始の場合

※オペラ化にあたって新たに設けられた「くすの木」は重要な語り部を担います。木島始にとって「木」は、そのペンネームが示す通り生涯を貫く重要なモチーフのひとつであり、特に「くすの木」は作品にしばしば登場しました。オペラ「ニホンザル・スキトオリメ」の冒頭シーンにつながる原体験を語ったスピーチから、下記に一部を抜粋してご紹介します。

■スピーチ「うたは信管をはずせるか」

(1987年法政平和大学での講演「小さな体験と大きな脅威」より)

まず、一篇、詩を朗読します。

ひとの混みあう町なかの広場に
ふりあおいでも梢が見えぬ
大木 一本 植えるとしょう

ひとりでなくて三人五人と
手をつないでもかかえきれない
大木 一本 植えるとしょう

どこまでも憧れるがいいとしょう
青空とささやきかわすのは
大きな幹をさかのぼる地下水だ

新芽の伸びかた葉のしおれかた
何よりも清々すがすがしい香りそのものが
命のありかを伝えてくる大使たちだ

車のまちがいやよごれた水で
帰らぬ旅立ちをしたひとびとが
便りのとりつぎ頼む大使館にと
大木 一本 植えるとしょう

清らかさきたなさともども
ひたすら年月としつきのみこんでいく
ケヤキでもクスノキでもいい
大木 一本 植えるとしょう

一瞬にして千年の大木が
これは、『巨木のうた』という作品です。今年の始めにこの作品を書きまして、林光さんの作曲で全国の高等学校の合唱グループの人たちがうたっています。(中略)「町なかの広場に振り仰いでも梢が見えぬ大木を一本植えるとしょう」という詩は、三十年詩を書いてきている自分にとっても、初めてのような詩です。(中略)日本には樹齢三百年とか、五百年とか千年とかいう大木が確かにあるわけですが、それを(中略)気軽に植えられるものではないことは、自明の理であります。それを敢えて、詩の中で植えるとしょうというのは、まるでSFの世界ですね。今ここで植えるといって大木が植わってしまうというのは、ありえないことですけれども、そういうことをうたいます。そういう大木というのは、もちろん、今日のテーマと関係があると私は思っています。それは、「戦争」と「平和」とを考えた場合、大きな国々が持っている爆弾は、樹齢千年の大木でも根こそぎ倒してしまいます。かつての戦争は、いろんな物が倒れても、そういう大木は残ったものですね。しかし、第二次世界大戦を契機として、その破壊の進行は、皆さんよくご存知のようにとてつもないことになりました。(中略)

言葉では表せない経験
その八月六日の広島の原子爆弾の光というのは、私たちのいた西高屋という所まで確実に届きました。部屋の中まで届きました。(中略)
それでは、あの経験を全然扱わなかったかというと、そうではないようで、時々どうしても出てくるという形で出てくることがあります。それはたとえば、童話を私はわりあい多く書くのですが、童話の三作目に「ニホンザル・スキトオリメ」というちょっと変わった題名のがあります。それを間宮芳生という作曲家が、なんとかしてオペラにしたいというので、オペラ台本に書き直しました。一九六〇年代に放送したり、上演されたり、あるいはチェコ語に訳されたり英語に訳されたりということになりましたが、そのオペラの出だしは、先ほどの大木じゃありませんが楠の大木が焼け焦げていて、その焦げた所に何やら判読し難いいろいろな印が刻み込まれているという所から始まるのです。オペラ台本と童話では少し違うのですが、話が長くなるのでここでは省きます。まあ、興味のある方は、お読みください。
(後略)

〔「群鳥の木」木島始エッセイ集 創樹社 1989 所収〕