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作曲家
橋本國彦はしもと くにひこ (1904-1949)
「2003年2月設立演奏会プログラム解説より転載」
片山杜秀(かたやまもりひで・評論家)
橋本國彦は1904年9月14日、東京の本郷弓町に生まれた。父親は会社員で、その転勤に伴い、一家は大阪に移り、橋本はそのまま大阪で育ち、小学校で鼓笛隊をやり音楽に目覚め、北野中学時代からヴァイオリンを名教師、辻吉之助に師事し、1923年、東京音楽学校(現東京芸術大学)にヴァイオリン専攻で入学した。しかし橋本が一番やりたかったのはもう作曲だった。でもその頃はまだこの学校には作曲科がなかったのである。そこで彼はヴァイオリンを安藤幸につき、ピアノも学ぶかたわら、作曲を、信時潔に時折りサジェッションを受ける程度で、ほぼ独習し、本科を卒業し研究科に進んだ1920年代半ばには、もう幅広く創作活動をはじめ、関東大震災(1923年)後の新しくモダンなものを求める都市文化の要求にたちまち適合して、時代の寵児となっていった。
即ち彼は日本舞踊のために西洋オーケストラによるオリジナルのバレエ曲をたてつづけに書き下ろして世間を驚かせ(1925~27年)、1920年代後半に集中的に書かれた歌曲では、たとえば《お菓子と娘》のシャンソン調で都市の少年少女を魅了し、《黴》や《斑猫》でフランス印象派の様式をいちはやく消化して山田耕筰までのドイツ・ロマン派の影響下にあった叙情歌曲の世界と一線を画し、《舞》で日本伝統の語り物のやり方をとりいれて日本版シュプレッヒシュティンメの世界を開示し、《富士山見たら》をはじめとする新民謡では都市生活者への田園への郷愁を、中山晋平のような赤裸々さとは違って、もう決して帰れぬ世界を遠くから眺めるような仕方で歌い上げた。また、彼はハーバの4分音音楽に興味を持ち、日本の伝統的音感を活かすには半音階では不十分だと微分音階による《習作》を書き(1930年)、これからの作曲家はクラシックとポピュラーの区別にこだわるべきでないと、日本ビクターの専属になって流行歌・軽音楽の作編曲を手掛け、ジャズ歌謡から演歌までを幅広く生み出し、1933年に信時潔の差配により母校の教官に招かれると、翌年には「東京音楽学校謹作曲」の名義で、極めてロマン派的なカンタータ《皇太子殿下御生誕奉祝歌》を発表した。結局、昭和初期の橋本は前衛も保守も、アカデミズムも反アカデミズムも、西洋趣味も日本趣味も、ドイツもフランスも、みんなひとりでやっていたのである。
1934年、彼は文部省派遣留学生としてヨーロッパに旅立ち、ウィーンでシェーンベルクの弟子、エゴン・ヴェレスにつき、またクルシェネクやハーバに教えを受け、フルトヴェングラーら、大指揮者の演奏をいっぱい聴き、ドイツ、イタリアに於いて全体主義体制下の文化状況を見聞し、最後にはアメリカ西海岸によってシェーンベルクの門をたたいて、1937年、ようやく帰国した。この間、彼はほとんど作曲をせず、見る・聴く・学ぶにのみ専念していた。
1937年といえば日中戦争が拡大の一途を辿っていたときである。橋本の留守のあいだにこの国の情勢はだいぶ変わっていた。彼は官学の東京音楽学校を代表する音楽家として、戦時体制下の文化の公式的な担い手となることを要求され、橋本はそれに持ち前の才気と職人芸で大いに応えてしまった。彼は《大日本の歌》《国民学校の歌》《大東亜戦争海軍の歌》《学徒進軍歌》《勝ち抜くぼくら少国民》などの戦時歌謡を大量生産し、南京陥落をオペラティックなカンタータにし、「皇紀2600年奉祝」に日本的ロマンティシズムの極みというべき名交響曲を生み出し、指揮者として東京音楽学校オーケストラを引き連れ「満州国建国十周年慶祝演奏旅行」に出かけ、山本五十六の戦死にほとんどワーグナーの《神々の黄昏》のような追悼曲を捧げ、その鬼気迫る自作自演録音まで残し、戦争が終わると「戦時に活躍しすぎた音楽家」として母校を追われて、敗戦の衝撃や戦後の虚脱感、あるいは戦争協力者の懺悔の情を反映した幾つかの名曲を作り(《冬の組曲》、《3つの和讃》など)、1949年5月6日、ガンで逝った。まだ44歳だった。
彼の東京音楽学校での弟子には、江文也、清水脩、高田信一、團伊玖磨、芥川也寸志、黛敏郎、矢代秋雄らがあり、特に芥川のリリシズム、黛のモダニズムとナショナリズム、また黛と矢代のダンディズムは、橋本の影響抜きには考えられない。
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取り上げた作曲家
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